香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

命、預けます!

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先週、口座開設の申請書類を受け取りに、

 

みずほ銀行香港支店へ行って来た。

 

香港島が一望できる景色、スタイリッシュなオフィス、

 

帰り際、口座開設を担当して下さっている方に、

 

「日本へ帰任して、地方の支店とかに配属になっても、

 

 もう自転車で得意先回りなんてできないでしょう。」

 

と言ったら、

 

「いやいや、そっちの方が気が楽でいいです。」

 

と、大笑いされていた。

 

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〝命、預けま~すぅ~♪

 

 嘘もつきます 生きるため

 

 酒も飲みます 生きるため

 

 こんな女でよかったら、

 

 命、預けま~すぅー♫ 〟

 

 

と、藤圭子も歌っているように、

 

暴走族やヤンキーが全盛だった80年代、

 

トンネルや高架下の壁などによく、

 

〝のり子命っ!〟とか、

 

〝さおり、てつやに命預けますっ!〟

 

みたいな落書きを目にしたものだが(大阪だけか)

 

今の僕はまさしく、

 

聖霊兄貴に〝命預けます!〟状態となっている。

 

 

で、お手伝いのチョイ姐が、皿を洗う時に誤まって、

 

ワイングラスを全部割ってしまったので、

 

今日、イオンで安いワイングラスを買ってきた。

 

1個700円くらいのワイングラスも、

 

僕のもとへ来れば、全て聖なるグラスに変わる。

 

ある意味、このワイングラスは僕に命を預けたのだ。

 

 

そういうわけで、

 

いつからこうなってしまったのかは分らないが、

 

気が付けば、聖霊に全てを預けてしまっていた。

 

もう、これまでの記事でさんざん書いてきたように、

 

日本へ帰任したら、で、ぐちゅぐちゅぐちゅ…、

 

新たなステージへ移行するか、で、いじいじいじ…、

 

でももう少しこのままで、で、うじうじうじ…、

 

というものも、一気に吹っ飛んでしまった。

 

 

どう説明すればよいのか、

 

自分が聖霊兄貴そのものとなっていて、

 

世界がそのまま聖霊の映し絵になっちゃってた。

 

そして、どうすればよいかを知っている兄貴に、

 

〝こんな僕でよかったら、命、預けます。〟

 

みたいになっていた。

 

(↑ てつやに、ではない。)

 

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そうやって、聖霊の中で24時間を過ごしていると、

 

会う兄弟、会う兄弟が無実の光に輝いて見える。

 

兄弟だけではなく、いまここに存在している、

 

パソコンや、コーヒーカップや、洋服、

 

果ては、公衆トイレの便器までもが、

 

愛の顕現のように映り、

 

美しいアートのように秩序立って見えるのだ。

 

これは比喩ではない。ほんとうにそう見えるのだ。

 

 

もう、兄弟に委ねて間違いない、と思える。

 

そのプロセスが終わるまでは決断できないが、

 

その瞬間が来れば、何の迷いもなく決断できる、

 

とフランシスは言っていたが、

 

そのことを身を以って体験している。

 

 

まあ、これは一過性のものかもしれないし、

 

ただの〝垣間見〟なのかもしれない。

 

ただひとつ言えるのは、

 

聖霊は、未来や過去にではなく、

 

今、ここに存在している、ということだ。

 

なので、聖霊に繋がりたければ、

 

今、ここに在る光をちゃんと見つめる訓練が必要だ。

 

 

さあ、スマホから顔を上げ、

 

周囲の人や、景色や、物の背後にいるJを、

 

ちゃんと直視するのだ!

ぐちゅぐちゅ

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最近、新作を書き始めている。

 

今書いているのは、

 

ある日本人の青年が、中国共産党幹部や、

 

中国富裕層から成る秘密結社と関わることになり、

 

そこで展開される、フェティシズムの体験を通して、

 

最後はハートの喜悦の中で真の神に出会う、という、

 

ちょっと、いや、相当〝イッちゃってる〟物語である。

 

この作品、エロスのなかに赦しを扱っているという、

 

僕としては渾身の力作だと勝手に思っているのだが、

 

よい子のスピ兄弟たちにはドン引きされ、

 

大陸では、絶対禁書になること間違いなしだろう。

 

乞うご期待!

 

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そして、ここ最近、僕のハートの喜悦と言えば、

 

筋トレ帰りに通るカフェで、街の風景を眺めながら、

 

白ワインを飲みつつ、奇跡講座を読むことである。

 

(ちっちゃ!)

 

 

まあ、皆さんも多分、そうだと思うのだが、

 

テキストの、これだといったページに付箋を貼ったり、

 

感動した文章にハイライトを入れまくっているうち、

 

ほとんどのページが付箋だらけになり、

 

大部分の文章がハイライトで埋まってしまい、結果、

 

付箋や棒線の意味がなくなってしまうという、

 

コースあるあるに陥ってしまうのだが、

 

それを避けるために、僕の場合は、

 

本当に好きな言葉は、書き写すようにしている。

 

それを後にワードへと転記し、保存してゆく。

 

ちょっと手間なのだが、書くことが好きな僕には、

 

このほうが、内容が咀嚼でき、性に合っている。

 

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そんな中、

 

いつもの様にカフェで奇跡講座を読んでいたとき、

 

天国とだけ100%繋がって生きることを、

 

先延ばし状態で、引っ張り続けている僕に、

 

ががーん、と来る言葉が出てきた。

 

 

〝真理であるがゆえに、自分が否定したものを、

 

  わたしはみたいだろうか。〟

 

 

これはとても重要な問いである。

 

自分が否定した真理を見ることに同意するとは、

 

真理を隠蔽するための代用物を手放す、

 

ということを意味する。

 

 

思いつくままに例を挙げてみるならば、

 

本当はそんなに幸せな結婚生活ではないけれど、

 

かといって不幸だというわけでもないし、

 

今の生活や、旦那の経済力を失うのは怖いし、

 

まっ、なんとなくこんなもんか、と思っている主婦や、

 

この仕事は本当にやりたいことではないけれど、

 

そんなに苦でもないし、安定した収入もあるので、

 

ま、いっか、と思っているサラリーマンや、(←ボク)

 

お金もあるし、物理的な自由も手に入れたし、

 

恵まれてはいるけれど、どこか空虚でむなしい、

 

といったようなものを、心のレベルだけではなく、

 

カタチのレベルでも手放すこととなる。

 

まあ、心のレベルで手放せたら、カタチのレベルでも、

 

自然に手放すことに躊躇はなくなるのだけれど…。

 

 

こんな話をすると、

 

「真理?うん、見たい、見たい。」と思いながらも、

 

日常生活の大切な部分を放棄せねばならない、

 

と聴いて、鼻白んでしまう人も多いだろう。

 

 

僕達は、できることなら、

 

真理を隠蔽するために使っていたものが、

 

聖霊の采配でいい感じに変化し、

 

幻想の良い部分は手放さずに幸せな夢に至る、

 

みたいな事を望みがちだが、そうはならない。

 

幻想を維持しながら真理を見ることはできない。

 

 

ただ、反対に、その心の準備が整うまでは、

 

決して動くべきではない、とも思うのだ。

 

物理的レベルで手放す準備が整ってきたら、

 

聖霊から自然とそういう状況を差し出される。

 

そこで、OKを出すかどうかを自分が選択する。

 

そのOKを、もうそろそろ出すかどうか、

 

という瀬戸際にいるのが今の僕、というわけである。

 

 

僕はまだ、ほんの少しだけ兄弟のことが怖いし、

 

まだわずかに、天国に対する恐れが残っている。

 

その一方で、自分や兄弟が完璧な無罪であり、

 

この世界が完全に夢であることも智っている。

 

 

帰還まで、もう秒読み段階に入っているいま、

 

輝いているように見えるいくつかの小物も、

 

ほんの近い将来、僕の中では光を失うことだろう。

 

 

ああ、許小姐(フランシスの中国姓)

 

助けて!

 

(↑ そっちかいっ! by 兄貴)

聖霊だらけ

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↑ 稲垣足穂『一千一秒物語』絵本版

   たむらけんじ氏による挿絵

 

約一か月前に起こった一瞥体験を通じて、

 

真に理解できたことは〝自我なんてなかった!〟

 

という衝撃の事実であった。

 

 

一瞥の最中は、

 

自分も自我も存在せず、完全に空っぽで、

 

ただ〝それ〟(眠っている神の子の意識)があるだけ、

 

という究極の状態だったのだが、

 

この〝自我なんて存在しない〟という体感は、

 

自己が回復し、意識が通常に戻った後の僕に、

 

大きな変化をもたらすこととなった。

 

 

もちろん、一瞥体験後も、日々の日常の中で、

 

普通に、恐怖感や不安感は上がってくるし、

 

自然に、江後田自我男による妄想劇場も起こる。

 

しかし、それでもエゴはないと真に解かっている。

 

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↑ 小説『ジンジャー・タウン』の挿絵を

   たむらけんじ氏に描いてもらうのが僕の夢…。

 

どういう事かというと、

 

聖霊を受け容れるということは、

 

この行為はエゴからのものか、聖霊からのものか、

 

とか、これはエゴの選択か、聖霊の選択か、とか、

 

このメッセージは本当に聖霊からのものなのか、

 

といった、エゴか聖霊かを分別しようというような、

 

どちらかを選ぶ、みたいなものではなく、

 

つまり、自分が、誰かから傷つけられていようが、

 

将来に恐怖し、欠乏感にさいなまれていようが、

 

目の前の事に忙殺され、きぃーっ、となっていようが、

 

聖霊に全托した時点でもう、そんなことも含めて、

 

それは全て聖霊の中で起っていることであり、

 

そこは聖霊に導かれている世界である、ということだ。

 

 

もっと突き詰めれて言えば、エゴが存在しないので、

 

一旦聖霊を選択してしまえば、

 

聖霊を選んだり、聖霊に何かを明け渡したりする、

 

という行為自体がそもそも成り立たなくなる。

 

選べる、ということは、選択できる他の何かがあり、

 

明け渡すということは、他に明け渡せる何か(エゴ)

 

がある、ということを意味する。

 

なので、この部分は自我で間違っていて、

 

これは聖霊の正しい部分、というのは存在し得ない。

 

 

もし、聖霊に訊いた結果、このレストランより、

 

あのレストランで食事をすることにしたのなら、

 

他のレストランで食事をすれば、

 

それは間違っているということになる。

 

だから、聖霊に訊いて、何をするかを決めたり、

 

聖霊の導きでどこかへ行って何かをすることになった

 

などということ自体、今の僕の中ではあり得ない。

 

 

なぜなら、

 

聖霊しか真実ではないのなら、選択の余地などなく、

 

どんなことがあってももう、神しかないはずなのだ。

 

僕達はただ、そこに〝信〟を置くだけでいい。

 

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↑ もうすぐ兄弟てっちゃんが、こんな感じの、

   素敵なヘッダーを創ってくれる予定なのだ!

 

そうやって、自我の不在が理解できてくると、

 

何かをしている自分や兄弟はなく、よって、

 

誰にも罪なんかないことが、おのずと解かってくる。

 

 

ただ、誤解を避けるために言うならば、

 

自我はある、と、無意識の心が信じている間は、

 

やはり、聖霊を選択する訓練をするべきだし、

 

自我の想いを聖霊に明け渡す実践を続けるべきだ。

 

そうやって、ある段階まできたとき、

 

ああ、自我なんて、もとからなかったんじゃん、と、

 

真の理解が起こるのだろう。

 

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というわけで、香港は秋本番、

 

摂氏20度の爽やかな日が続いている。

 

飛び回ることに疲れている僕は、

 

今週はもう、絶対に飛行機には乗らない、

 

絶対に出張しない、と決心を新たに過ごしている。

 

 

あっ、いけない、これって自我? ううん、大丈夫。

 

だって、聖霊を選んだ時点で、こういうのも含めて、

 

もう完璧な〝聖霊〟の導きの中にいるんだから…。

 

(↑ うわっ、でたあーっ!ご都合奇跡講座!)