香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

おごるということのあれこれ

f:id:shusaku1:20181207192114j:plain

 


三泊四日のフィリピン出張であった。

 

今、フィリピンは乾季なので、

 

毎日、カラッと晴れた晴天の毎日が続いている。

 

気温は32度と暑いけれど、空気は乾燥していて、

 

風もあるので、過ごし易い。

 

いつもは仕事場とホテルの往復だけなのだが、

 

今回は、夕暮れ時の海辺を散歩したり、

 

昔、フィリピンで工場長をしていた日本人の前同僚と、

 

久々に会ってバーで飲んだりした。

 

彼はいま、この地で英語学校を経営しており、

 

日本の企業に対して、英語を短期集中的に学べる

 

社員研修を企画提案し、生徒を集めている。

 

さしずめ、語学版ライザップといったところか。

 

なかなか好評らしく、経営も順調だという。

 

f:id:shusaku1:20181207192129j:plain

 

 

今回の出張では、お金を一切使わなかった。

 

僕達サラリーマンには出張手当というものがある。

 

これは、現地で個人的に食事をしたりするのに、

 

必要な経費として支給される。

 

しかし、今回は、個人的な飲食代なども含め、

 

全て、年配の方などに支払っていただいた。

 

 

僕くらいの年齢になると、年下の部下などに、

 

食事をおごったりする機会が多くなる。

 

また、出張に行くと、会計事務所や、保険会社の人に

 

食事をおごってもらったりする。

 

こういう年齢的、利害的な理由で奢り奢られる分には、

 

彼らも年を取れば年下にメシをおごるのだろうし、

 

会計事務所の人も飲食代は経費で落とすはずなので、

 

そこに貸し借りからくる罪悪感は発生しない。

 

 

しかし、仲の良い友人に何かをおごったり、

 

金銭を出す行為に対しては、今後はちょっと、

 

気を付ける必要があるな、と、最近思い始めた。

 

 

というのも、僕自身は、これまで、

 

友人に食事などをおごることに、全く抵抗がなかった。

 

むしろ、おごっている方が、割り勘なんかより、

 

気を使わずに好きなものを頼めるし、

 

そうやって〝適度に〟お金を手放すことで、

 

逆にどんどん豊かになることも体験しているので、

 

むしろおごる方が絶対にトクだ、という意識があった。

 

 

しかし、おごられる側の立場に立って見てると、

 

その瞬間、必ずおごられる側の無意識の心の中に、

 

ある種の、後ろめたさや、無力感を生じさせてしまう。

 

ここで誤解を避けるために説明しておくと、

 

この場合の無意識の心の中というのは、

 

相手も気づいていない無意識の心のことを言っている。

 

 

そして、この相手が持った一瞬のうしろめたさこそ、

 

おごる、という行為によって相手に投げつけた、

 

僕自身のうしろめたさ(運子ちゃん)だった、

 

ということに最近気づかされたのだった。

 

f:id:shusaku1:20181207192139j:plain

 

まあ、相手が、

 

自分と同等か、それ以上の経済力のある友人であれば

 

別にどっちが出してもいいや、となるのだろうが、

 

相手の中に欠乏を見ながら金銭を出す関係性が、

 

本人が喜んでいるかどうかには関係なく、

 

実際にどういう影響を与えているか、を、

 

ちゃんと認識してゆくべきだな、と深く思った、

 

次第である。

 

f:id:shusaku1:20181207192113j:plain

というわけで、やっと、古巣の香港へ戻ってきた。

 

フィリピンは揚げ物が多いので、

 

食事には注意していたが、それでも食べ過ぎた。

 

f:id:shusaku1:20181207192055j:plain

 

最近、過去や未来をすべて兄貴に捧げてしまい、

 

今この瞬間に在る平安だけに集中しているせいか、

 

時間の感覚がヘンである。

 

先週、日本や上海に行ったのが、遠い昔のようだ。

 

時間が速く過ぎる、というのとも少し違い、

 

昨日のことでも、遠い昔みたいに感じられる。

 

不思議だ。

不思議な村

f:id:shusaku1:20181118235359j:plain

 

 

僕が小学生だった頃、ちょうど日本は超能力ブームで

 

スプーンを曲げる少年たちや、鉛筆を動かす少女が、

 

連日のようにテレビに登場していた。

 

そんな時、たまたまNHKで放映されていた

 

『不思議な村』というアメリカのテレビ映画を観て、

 

僕は天地が引っくり返るくらいの衝撃を受けた。

 

 

はるか昔、地球に不時着した宇宙人たちが、

 

人里離れた村で、ひっそりと暮らしている。

 

彼らはまた、空を飛んだり、モノを動かしたり、

 

テレパシーで会話できる超能力を持っていた。

 

そして、いつも自分たちの故郷の記憶を共有し合い、

 

いつか帰りたいと故郷の星に思いを馳せている。

 

しかし、外部の人間たちの迫害を恐れ、

 

彼らは自らの超能力を隠して暮らしていたが、

 

そこへ若い地球人の女性教師がやってきて…、

 

という物語だ。

 

 

このテレビ映画を観たとき、

 

懐かしさに胸を締めつけられる様な哀愁に襲われた。

 

それからというもの僕は、

 

この地球外から来た超能力を持つ人たちのように、

 

本当の自分は宇宙人で超能力者だ、と思いながら、

 

小学校生活を過ごした。

 

もう完全になりきっていて、

 

いつか宇宙船が自分を迎えに来てくれ、

 

本当の自分に戻れると、心の底から信じ切っていた。 

 

f:id:shusaku1:20181124024516j:plain

 

そして、毎朝の〝聖なるバス通勤〟でいつものように

 

自分の内側へアクセスしていたときのことだ。

 

自分は、どんな奇跡でも起こせる、

 

無限の力と愛を持った完全無欠な存在だ、

 

という〝ガチな〟自覚が沸々と全身に漲ってきた。

 

それはまるで、自分が超能力を持つ宇宙人だ、

 

と信じていた小学生の頃の自分のように、

 

単純で純粋な確信に満ち溢れていた。

 

 

あの人にこんなことをされて傷ついた、とか、

 

お金が無くてこの先どうしよう、とか、

 

ちょっとしたことでイラッとしてしまう、とか、

 

俺は成功していてこんなにワクワクなんだぜ、とか、

 

自分という存在は、

 

そんな俗っぽくてちっぽけなものではない、

 

という確信だった。

 

 

もちろん、肉体を持ってこの夢の世界を生きている、

 

と思っている僕達は、自力で空は飛べないし、

 

イエスのように海の上を歩くこともできない。

 

( いや、できる。

 

  右足が水面に着く前に左足を出す、という動作を,

 

  高速で繰り返せばよいのだ。← by J  )

 

しかし、僕達は肉体ではないし、肉体を超越している。

 

 

もう、自分の生みの親が完璧で不可知な父であり、

 

自分はその子供なのだという事実に気づくだけで、

 

この夢から醒めてゆくには十分すぎる。

 

 

なので、うまく言葉で表現できないのだが、なにか、

 

もう、一切の幻想を真に受けない覚悟というか、

 

肉体を超越した存在である自覚を持ったまま生きる

 

というか、凛とした芯のようなものが僕の中に芽生え、

 

今後、揺るぎない生き方になってゆくような気がする。

 

↓ 関連記事-救済があなたに求める5つのこと ↓

blog.hoshitani-shusaku.com

 

と、バスの中でここまで思い至った時、

 

冒頭で書いた、小学時代に観た映画の事を

 

〝ふっ〟と思い出した、というわけである。

 

いま思えば、あの頃の自分は、

 

真の自分のアイデンティティにふさわしい場所がある

 

と無意識に感じ取っていたのだと思う。

 

それが、たまたまテレビで観た映画によって、

 

意識の表層に浮かび上がってきたのだ。

 

www.youtube.com

 

それにしても、あの頃のNHKって、

 

『謎の転校生』 『七瀬ふたたび』 『その町を消せ!』

 

などの少年SFシリーズをはじめ、僕達を現実世界から、

 

少しの間ワープさせてくれるような不思議系ドラマを、

 

次々に製作し、放映していた。

 

↓ 少年ドラマシリーズの関連記事 ↓ 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

この『不思議な村』 という映画、

 

故郷へ戻るまでに、全編を通して見てみたいものだ。

上海いろいろ

f:id:shusaku1:20181129180936j:plain

 

晩秋の上海である。

 

中国の都市の中でも上海は、

 

特別瀟洒で芸術的な都市だと言える。

 

街ゆく女の子たちも、柔和で清楚な魅力に溢れている。

 

そう言えば、彼女たちのコンサバ的ファッション感覚は、

 

どことなく神戸の女の子に似ている。

 

なので、上海は、コンサバお嬢様系大好きな僕には、

 

たまらない都市でもあるのだ。(笑)

 

 

ゴホン、閑話休題。

 

ということで、この日は、

 

中国工商銀行で、会計事務所の女の子と待ち合わせ、

 

配当金の送金手続きを行なった。

 

そこでは、会計事務所の女の子の言うがまま、

 

ここにハンコ押して、と言われればハンコを押し、

 

ここにサインして、と言われればサインをし、

 

IDを見せろ、と言われれば、IDを取り出し、と、

 

大の字に寝て、もうどうにでもしてくれ、状態であった。

 

途中、この書類がなければ送金はできませんよ、

 

と言い始めた銀行スタッフに、会計事務所の彼女が

 

食い気味にまくし立て、そのまま押し通してしまった。

 

結果、無事送金手続きを終えることができた。

 

 

送金をひとつ実行するのに、3時間くらいかかった。

 

というのも、共産党の幹部たちが、国内の外貨を、

 

大量に海外へ持ち出しているのが発覚して以降、

 

外貨管理局のチェックがとても厳しくなり、

 

海外送金がますます難しくなりつつあるのだ。

 

 

LINE、FACEBOOK、ツイッター、YOUTUBE、など、

 

世界との繋がりが遮断され、スピ系の活動も、

 

それが共産党思想を脅かす存在と見做されれば、

 

国家転覆罪に抵触するとして、即禁止、逮捕となる。

 

決して大げさに言っているのではない。

 

実際、信条的理由で突然姿を消す人たちが大勢いる。

 

 

それでも、僕は、自分の心の中(現実世界)に対して、

 

無罪を差し出すだけだ…。

 

f:id:shusaku1:20181128221450j:plain

 

夜は、上海で働いている台湾人の友人と食事をした。

 

会うのは一年ぶりだ。

 

彼は長年、上海に拠点を置く台湾系の会社で、

 

食品開発の仕事をしていたのだが、上司といろいろあり、

 

先月末でその仕事を辞めたのだと言う。

 

本当は台湾で就職したいらしいが、

 

現在の台湾は経済が低迷しており、

 

課長クラスでも給料が20万円ほどしかないという。

 

上海の現地採用の仕事だと給料は多いが、

 

台湾の保障制度がうけられなくなる。

 

昨日も、ひとつ面接を受けたのだが、

 

どうやら今回はご縁がなかったようだ。

 

なんだか、数週間前の僕と境遇が似ている。(笑)

 

 

話をしながら、ただ、彼の無罪性に〝寄り添う〟。

 

だって、俺の心の中(現実世界)に顕われてきた彼は、

 

神の子として開放されるに値するから。

 

f:id:shusaku1:20181128221429j:plain

 

寄り添う、と言えば、

 

赦し、と言っても、人それぞれいろんな赦し方がある。

 

僕のように、次々に無罪を差し出す人もいれば、

 

ただ祈る、と言う人もいる。

 

また、相手を通して自分の中に出てきた感情を、

 

手放し明け渡すことを実践している人もいるだろう。

 

 

そのひとつに〝寄り添う〟というのがある。

 

例えば、

 

相手は絶対間違ってる、だから関わりたくない、

 

あのしゃべり方、あのしぐさ、あの態度、全部イヤ、

 

みたいな相手がいたとする。

 

(まあ、そこまでの人はそんなにいないと思われ…。)

 

それでも、そんな時こそ、自分の主張を全て脇へ置き、

 

きぃーっ、となりながらも、無理くりにでもいいから、

 

相手は100%間違っていない、

 

相手のほうが自分の主張よりも正しい、

 

相手の言っている事、全てがオーケー、

 

という眼差しで見つめてみる。

 

それが、僕にとっての〝寄り添う〟である。

 

 

ただ、誤解を避けるために言うならば、

 

それは、自分の方が間違っている、ということでも、

 

相手が行なった表面的な行為自体を正しいと見る、

 

ということではない。

 

ただ、その人の根底にある〝正しい心〟を観る。

 

 

顔を見るのも嫌な相手が言っている事を正しいとする、

 

というのは、すっごく難しいことのように思えるが、

 

そこは〝根性〟で大気圏突破を図れば、何とかなる。

 

 

と、上手く言えないのだが、今回の出張では、

 

そういった、寄り添う赦しを、

 

兄弟から学んだ一週間だった。