香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

みんなで越えるぜ!

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↑ 「ああー、来るぅーっ!」

  今年の紅白でもちゃんと〝越えて〟くれました。

 


先日、歯のホワイトニング(漂白)に行って来た。

 

ホワイトニングの前には必ず、

 

歯石を取り、虫歯も治療するので、歯の健康にもよい。

 

前回やったのが4月で、8カ月が経過していたが、

 

あれだけ、赤ワインとかコーヒーを飲みまくっていたのに、

 

ほとんど変色はなく、治療後は、前回より白くなった。

 

全部やってもらって一万五千円だった。 満足っ!

 

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↑ 「いくぅーっ!」

   今年は〝トリ〟だったからか、越え方が半端なかった

 

大阪の実家では、仕事もオフで、静かに過ごせたため、

 

ずっと、自分の内側と向き合う赦しをしていた。

 

また、実家にいることもあり、赦しのきっかけとなるのは、

 

やはり、両親へのイラッ、である。

 

 

例えば、母は電気代の節約にうるさい。

 

電気を食うから、とテレビのコンセントもその都度抜く。

 

僕は寒かったら部屋中の暖房を点けっぱなしにする。

 

暖房を消して、そのくせぶるぶる震えている母に、

 

イラッとした僕は、一万円をポンと投げつけ、

 

滞在中は好きなだけ暖房を使わせてもらう、と宣言した。

 

それでも、親子というのは、

 

ダイレクトに感情をぶつけ合っても、すぐまた、

 

普通に笑い合い、仲良くできるから不思議だ。

 

 

しかし、こんなとき、この〝ふっ〟と湧き上がる想いを、

 

内なる決断の主体まで戻し、そこで何がなされているのかを

 

認識してゆく作業はとても大切だ、と思う。

 

 

セコくて頑固な母にイラッ→金で解決の自分にイラッ→

 

イラッの元ネタは、天国から離れたという想い込みだった

 

→本当は天国へ帰りたい→自分は神が大好きだったんだ

  

と、そこまで遡ったあと、神へのとてつもない愛を見つめ、

 

その裏返しである想いを聖霊へと捧げてゆく。

 

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結局、全てのイラッや、びゅんびゅんや、ドキドキは、

 

父が待つ故郷へ帰還したいという想いの裏返しだった。

 

以前、沖縄リトリートで、内側をどんどん遡ってゆくと、

 

どんな赦しも、最後は、父が待つ故郷へ還りたい、

 

という想いへ行きつく、と、どなたかが言っていたが、

 

ほんとうにそうだな、と改めて実感した。

 

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↑ 越えたっ!

 

とまあ、こんな感じで、最近の僕は、

 

どこかへ出かけて、何かを見たり、したりするより、

 

内なる自分(聖霊)と向き合っている方が、平安で楽しい。

 

全ての問題は〝そこ〟へ運ばれ、解決される。

 

だから、自分が抱える全ての問題を、

 

聖霊に解決してもらうことを全面的に意志してゆく。

 

 

〝聖霊が問題を解決する時、その答えは常に、

 

 誰も損失を被ることのない答えである〟

 

(※『奇跡講座』 第25章 神の正義より)

 

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↑ フィニッシュ!

 

というわけで、

 

謹賀新年、明けましておめでとうございます。

 

幻想としての僕の2019年は、

 

これまで良しとしていたものが根底から覆えされそうな、

 

まったく予想もしなかった場所へたどり着きそうな、

 

そして最後には、兄貴の采配に感動の涙を流すような、

 

激動の一年となりそうである。

 

それでも兄貴は、僕を怖がらせたり、僕に代償を求めたり

 

僕を傷つけるような事は絶対にしないという確信がある。

 

 

なので、今年も、兄貴と兄弟に信を置き、

 

問題を全て兄貴に運んで、解決してもらいながら、

 

故郷への帰途を歩んで行こう、と意志している。

 

 

あ、それと、あとは、引き寄せの法則を使い、

 

芥川賞を獲ってベストセラー作家になり、

 

夢の印税生活を送ることです。

 

(↑ ウソぴょん!← ちょっとホント…)

 

↓ 過去の天城越えの記事はこちら ↓

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聖霊の中では、どんなに苦しんでいようと平安だ

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↑ KOUHAKUの店内。料理もワインも素晴らしい。

   店員さんのサービスも一流。

   いつも満員なのだが、待つ価値あり!

 

昨日は、

 

阪急紀伊国屋裏のKOUHAKUというレストランで、

 

美味しいワインやイタリアの創作料理をつまみながら、

 

関西出身の、とある美人で才女なコース兄弟と、

 

夜遅くまで語り合い、おおいに盛り上がった。

 

彼女とは、

 

ハレ師匠のもとでコース理論を共に学んだ仲で、

 

会うのは一年半ぶりくらいか。

 

 

その中で、聖霊を信頼するとは、

 

兄弟から差し出される全てのパフォーマンスや、

 

それに対して湧き出してくる全ての感情を、

 

〝聖霊〟として認識することなんだ、という話になった。

 

そうなると、見えているものすべてが聖霊となり、

 

聖霊でないものなどひとつもない、ということになる。

 

出てくるものにただ信頼を置いていくだけだ。

 

 

たとえ、今、どんなに赦し難い事態が起こっていようとも、

 

たとえ、今、どんなに誰かを憎んでいたとしても、

 

たとえ、今、どんなに何かを恐れていても、

 

自分をこれらの苦しみから救い出してくれるのは、

 

コースでも、どこかの教師でも、ましてや自分でもない。

 

それは、いま、自分の眼前で、

 

「ほら、赦せよ。これがお前だよ。」とばかりに、

 

強烈なパフォーマンスを見せてくれている、

 

最も忌み嫌い、苦手としている兄弟こそが、

 

自分を解放し、故郷へと導いてくれる存在であるのだ。

 

そういう意味で、僕たちは、全ての兄弟に恩義がある。

 

 

だから、もし、

 

そういう自分を苦しめる人や状況があるのなら、

 

安心して相手に信を置いて、

 

思い切り、怒るなり、怖がるなり、苦しむなりすればいい。

 

赦すのが無理なのなら、なおさらのこと、

 

信を置いた相手を心ゆくまで恐れ、怒ればよいのだ。

 

しかし、ひとつだけ覚えておきたいのは、

 

その相手なしでは、絶対に、絶対に、絶対に、

 

自分は父が待つ故郷へは戻れないということだ。

 

だから、聖霊を智ったら最後、どうあがいたって、

 

救われるしかない。

 

最後は、兄弟たちに感謝するしかない日が来るのだ。

 

 

僕がそんな話をしたとき、一緒に飲んでいた彼女が、

 

「それほどの赦しの対象になる人なんて、

 

 今のわたしには、おらへんわあ。」 

 

と言った。

 

それでも、深く見つめてゆくと、

 

大勢の人がいる場所、もたもたしている人、虫、

 

ある特定の人種、政治家、近所の人、など色々出てくる。

 

 

なので、強烈な苦しみ(赦しの対象)がある人というのは、

 

コースの中でも、

 

〝最短一気終了コース〟を選択していると言える。

 

だから、そこに信を置いていれば、

 

今の自分がどんな状態であってもカンケーない。

 

バシバシやられているうち、

 

「ああ、女王様~!もっと~!」となるかもしれない。

 

  

それから、コースを始める初期段階で、ハレ師匠から、

 

コースの理論を徹底的に叩き込まれたことは、

 

本当にラッキーだったと、彼女と確認し合った。

 

 

加藤美代子氏の『思考の逆転』に出てくる、

 

自己概念A、B、Cのくだりも、決断の主体についても、

 

3013年ごろにはハレ師匠から習得済みだったし、

 

どのような仕組みで〝取り消し〟が起こるのか、

 

実相世界と静寂の意識の違いや、ハートについてなど、

 

必要な理論は最初の二年で全て叩き込まれた感がある。

 

厳しかったけど、今となれば感謝しかない。

 

ああ、ハレ師匠、プリーズ、カムバックッ!

 

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そして、おとといは、オアシムのウェブシェア会だった。

 

その中で、赦し方に違いはあるのか、

 

ということがトピックとして挙がった。

 

 

例えば、

 

同じ赦しでも、僕の様に外側へ投影された世界を、

 

自分の心の中(決断の主体の世界/ベールの向こう側)

 

と観て、そこに顕われ出たものを、直接赦すやり方や、

 

内側に感じている恐れや罪悪感を観てゆくことで、

 

神から離れた、という決断の主体まで戻り、

 

それを聖霊へと明け渡すやり方など、

 

赦し方も人それぞれ、微妙に違っていたりする。

 

それでも、共通して言えることは、

 

赦すのは、罪を犯したという想い込み、であり、

 

罪悪感そのものではない、ということだ。

 

 

また、

 

デイヴィッドのコミュニティでは赦しをあまり重要視しない。

 

なぜなら、罪を犯したという想い込みはすでに訂正され、

 

故に、赦しはもう完結されている、という観点から、

 

聖霊のガイダンスに従って行動してゆくからだ。

 

しかし、ワプニック氏の理論では赦しが最重要視される。

 

 

僕の場合、

 

まだまだ故郷へは帰りたくない、ということを、

 

先の〝東京帰任事件〟で認識済みなので、

 

聖霊の中で赦しを行なってゆくことは必須事項だ。

 

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しっかーし!

 

ウェブシェア会では、

 

なんかボーっとしていて、言いそびれたのだが、

 

たとえ、内へと向かう赦しこそが大切だ、

 

と、全世界のコース兄弟が言っていたとしても、

 

自分はちょっと…、と思ったら、それが正しい。

 

 

そんな修行のような赦しは、ちょっとシンドイ、

 

今のこの苦しみの中で、赦しなんて無理、

 

自分は聖霊のガイダンスに頼った方が平安だ、

 

と、自分が思ったのなら、それが正しいのだ。

 

 

どんなに苦しんだって、悪態をついたって大丈夫、

 

眼前に現れる聖霊たち、普通の友人や、家族や、同僚や、

 

路上で出会う様々な見知らぬ人たちが、

 

きっと、正しい帰路へと導いてくれると思うから。

祝福がいっぱい

 

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クリスマスイブの24日、

 

大阪へ行こうと駅の券売機で切符を買っていたら、

 

見知らぬおばちゃんから声をかけられた。

 

どこまで行くのかと訊かれたので、大阪です、と答えると、

 

今日が期限の特割切符があるので使って、と言って、

 

財布から取りだした切符を僕に差し出した。

 

そして、また戻ってくるのか、と訊かれたので、

 

ええ、と答えたら、おばちゃんは、

 

もう一枚、特割の切符を僕に差し出した。

 

「ああ、今日が期限切れの切符なので、

 

 自分は乗らないし、もったいないから、

 

 誰かに買ってもらおうと思っているのだな。」

 

と解釈した僕が、財布から500円硬貨を取り出し、

 

おばちゃんに渡そうとすると、

 

「ああ、もう、そんなん、ええねん、ええねん。

 

 どうせ、乗らへん切符なんやから、お兄ちゃん使って。」

 

と言うと、おばちゃんは、小走りに行ってしまった。

 

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↑ 関西に住むコース兄弟からの誕生日プレゼント。

   なんか、俄然、創作意欲が湧いてきたぞ!

 

おばちゃんがくれた切符で電車に乗ったとき、

 

とても幸せで、暖かい気持ちが込み上げてきた。

 

この幸せで、暖かい気持ちこそが、

 

サンタからのクリスマスプレゼントだったのだ。

 

 

こういうちょっとした好意や親切が、誰かの人生や、

 

果ては、地球上の全く違う場所にいる誰かの心に、

 

大きな影響を及ぼしてゆくのだな、と感じた。

 

 

ありがとう、おばちゃん!

 

そして、メリー・クリスマス!

 

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というわけで、以前にも書いたが、

 

『この宇宙は夢なんだ』という本に出てくる、

 

今世の自分が憎んでいる者に来世は転生してゆく、

 

という言葉を想い出している。

 

それでいくと、

 

今世で自分だと思って生きている自分は、

 

前世の自分が忌み嫌っていた人物であり、

 

今世の自分が憎んでいる相手こそが、

 

来世で自分が生きることになる人物ということになる。

 

そう言う意味で、今の自分の嫌悪する部分を赦せば、

 

前世の自分が憎んでいた相手を赦すことになり、

 

また逆に、今、自分が憎んでいる他者を赦せば、

 

来世で生きるであろう自分を削除することとなる。

 

なので、もし、自分や他者の中に気に入らない部分とか、

 

ちょっとした憎しみを見つけているのなら、それはもう、

 

前世と来世を取り消す絶好のチャンスだ、と言える。

 

↓ 転生について量子の観点から説明しているよ ↓

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 ↓ ちょっと不思議な輪廻転生の仕組み ↓

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僕は、いまのところ、

 

あいつが死んでくれたら自分はどんなに幸せだろう、

 

と思えるような、憎悪の対象になる兄弟もいなければ、

 

仕事の中で葛藤を覚えるような人物も皆無だ。

 

正確には、皆無になってしまった、と言った方が正しい。

 

 

というのも、今の僕の見え方というのは、

 

外界の世界は自分の心の中そのものであり、

 

そこに登場する全ての人は、

 

僕が外へと追いやった罪悪感の象徴と知覚されている為

 

だからこそ、彼らに無罪を差し出すことで、

 

彼ら(自分)は癒され、僕の心へと統合されてゆく。

 

赦しが完結すればするほど、世界が終わってゆくのだ。

 

要するに、赦しを進めてゆくと、必ず、ある段階で、

 

親しい人や、物や、事が、消える体験をすることになる。

 

 

消えたからと言って、心配する必要もなく、

 

より豊かで平安な、聖霊によって手配された、

 

新たなステージが用意されているのだが、それでも、

 

その端境期(はざかいき)には、なんとも形容しがたい

 

寂寞や喪失感や切なさを感じてしまう。

 

こういうとき、思わず引き返したくなったりするが、

 

もし、赦しが進んだことで、

 

消えゆくべき人や環境が消えて行ったのなら、

 

それは、次の生で、自分がやることになっている人物、

 

遭遇するであろう出来事が削除されているのである。