香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

宜保愛子といっしょ!

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今週は、奇跡的に出張がなかった。

 

これは、Jが海の上を歩くのと同じくらいの奇跡である。

 

正直、もうこれ以上、飛行機に乗りたくない。

 

飛行機そのものより、

 

航空券の手配や、荷造り、空港からホテルまでの移動や

 

イミグレと荷物検査、そして、遅延による待ち時間など、

 

毎回これらを繰り返すことに脱力感を覚えはじめている。

 

 

とはいうものの、出張がなくても、残業はある。

 

大体、午後9時ごろまで仕事をして、10時ごろ家に帰る。

 

まあ、今の僕は、

 

仕事とプライベートの間にあまり差を感じないため、

 

家にいても、事務所にいても、大した違いはない。

 

 

まあそんな感じで、

 

自分のデスクの所だけに明かりを点け、

 

YOUTUBEで宜保愛子の昔の心霊番組を見ながら、

 

一人デスクワークをしていたら背中がぞくぞくしてきた。

 

「ほら、あそこにいますよ。」

 

という、宜保愛子の表情も怖い。

 

もう帰ろうと片づけ始めた時、入口のガラス扉に、

 

いきなり、おっさんの顔がにょきっと現われ、

 

ぎょっとなった。

 

よく見ると、ビルの保安のおっちゃんだった。

 

もう、心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。

 

 

「何時までやるんだ?正門は10時に閉めるからね。」

 

と告げ、保安員のおっちゃんが立ち去った。

 

そのあと、あのおっちゃんが神(父)だったことに気づいた。

 

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僕達には、

 

突然神に出くわすと、恐怖で逃げ出すという習性がある。

 

だから、突然驚かされた、虫が飛び込んできた、など

 

ビックリさせられる何かに遭遇したなら、

 

それは〝神〟と鉢合わせしたんだ、と思って間違いない。

 

また、転職、失恋、引っ越し、災害、別離、病気、など、

 

突然の環境の変化から来る恐怖も〝神〟経由のものだ。

 

本当は、神がもっと良いものを与えようとしているのに、

 

僕たちはそれを〝奪われる〟と知覚してしまう。

 

それで、その恐怖から逃れようと、

 

いろいろ妥協策を講じたりした結果、

 

しっちゃかめっちゃな状況に陥ったりする。

 

 そうやって、目の前にいる神を見て、

 

「ぎゃあー、怖いよう。ああ、神様、助けてえーっ!」

 

と、矛盾したことを言っている。

 

 

だから、何か恐怖におののくようなものに遭遇した際は、

 

「あっ、神様だ!」と思いなおせばいいし、

 

環境の変化に伴う不安や心配が出てきたら、

 

神様がもっと良いものと交換してくれようとしているんだ、

 

と理解して、出てくる不安や恐怖を、

 

ただ消えてゆく姿として、静かに見送ってゆけばいい。

 

 

こうやって、神に遭遇すると恐怖で逃げ出したくなる、

 

という習性を逆手にとり、僕達は、

 

神を受け容れる訓練をしてゆくこととなる。

 

 

まず、小さな恐怖や不安をきっかけに神を見つけ、

 

それから、神を、

 

恐怖としてではなく、平安として感じられるよう、

 

知覚の訂正を依頼してゆくのだ。

 

www.youtube.com

 

そんなこんなで、この日は結局、

 

宜保愛子の心霊番組を最後まで見てから事務所を出た。

 

ネプチューンが出てる、ふんどし先生の番組…。

地獄経由

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↑ 建設業に携わろう、という政府のポスター。

   いま、建設現場の人手不足が深刻化している。

 

 

先日、香港人の友人数人とカフェで話していた時、

 

その場にはいない、ある人物のうわさ話となった。

 

その人(男性/40代/独身/香港人)は、

 

ちょっとお金にルーズなことで知られていて、

 

「この前さ、また金銭トラブルがあったんだよね。」

 

「ええっ、マジで?」

 

「そう言えば、昔、あんなこともあったよね。」

 

「あった、あった。オレなんて、あいつのおかげで…。」

 

「へえ。まだそんなことやってんのかよ。」

 

みたいな会話が延々続く。

 

しかし、その噂の種にされている人物は、

 

僕が失業して困っていたリーマンショック時代、

 

親身になって職探しに奔走してくれた人で、

 

僕にとっては命の恩人といっても過言ではない人だ。

 

なので、彼のダメ出し大会のような会話の中、まるで、

 

自分のことを言われているようで、たまらなかった。

 

それでも、表面上は、ニヤニヤしながら、

 

相槌を打っている偽善者の自分にも苦しくなっていた。

 

 

そのとき、わかった。

 

眼前で数人の友人たちが話している会話は、

 

本当は、僕がそう思っているのだ、と…。

 

「自分は彼のことをそんなふうには思っていません。

 

 彼は僕の恩人であり、大好きで大切な人です。」

 

と、彼を悪く言っている友人たちを批判したくなるが、

 

おっとどっこい、

 

心の中でやっている仕組みをようく見て行くと、

 

これは全て、

 

自分の本心を彼らに言わせていたに過ぎない。

 

 

私は彼をお金にルーズなダメ人間と思った→

 

罪悪感→

 

私はそんなひどい事を考えるような人間じゃない→

 

否定→

 

そうだ、これを他人が思ったことにしてしまおう→

 

投影→

 

あの人たちがあんなひどいことを言っている→

 

私の大切な恩人を悪く言うなんて許せない→

 

私は善

 

 

とまあ、これ以上でも、これ以下でもないことを、

 

人生全てのシーンにおいてやっている。

 

それも、自分ではこの矛盾に全く気付いていない。

 

彼を批判する友人たちの姿を見て、

 

なんでもっと、愛で彼を見ないのだろう、と考えていたが、

 

何のことはない、愛で観ていないのは自分であった。

 

 

しかし、そうは言っても、

 

〝投影される前の記憶は消え去る〟という法則ゆえに、

 

他者の放つ言葉こそ、自分が隠蔽している本心だ、

 

とは、なかなか思えないものだ。

 

 

だから、

 

誰かに自分の好きな人を批判され耐えられなくなったら、

 

それは自分が他者へと投げ捨てた想いであり、

 

本当は自分がそう思っていた、と気づくチャンスである。

 

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↑ かなりイケイケな建設省のポスターだが、

   日本ではセクハラになるのか?

 

 

よく、自分のことなら何を言われても構わないが、

 

私の好きなあの人の悪口を言われるのは耐えられない、

 

と言う人がいるが、それも、ようくようく観てゆくと、

 

その中には、巧妙に隠蔽された〝偽善〟がある。

 

自分の罪悪感を押し付けた他人に、

 

大好きなあの人のことを批判させ、

 

それに牙をむいて立ち向かう、という偽善だ。

 

また、自分の事をストレートに批判されるくらいなら、

 

大切な人の事を批判されて、それに怒っている方が、

 

まだ、自分のプライドが保てる、と思っていたりする。

 

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要するに、この虚像世界は全て、

 

自分が押し付けた運子ちゃんの投影の世界であり、

 

そこで他者が語っていることは、

 

ひとつ残らず、自分の本心である。

 

ただ、自分の本心を他人に押しつけ、それを見て、

 

あいつはけしからん、とやっているに過ぎない。

 

 

だから、他人の発言を自分の本心だと認識し、

 

それを赦してゆくことは、故郷へ還る観点から言えば、

 

最も手っ取り早く、最短な方法だと言える。

 

しかし、それはまた、他人のせいにできない分、

 

かなり苦しく、ある意味、地獄経由の赦しとなる。

 

 

だが、赦しがある段階まで進むと、必ず、

 

この、運子ちゃんを真正面から見つめる、という、

 

まさに地獄経由の領域を通り過ぎることとなる。

 

 

そういうときこそ、

 

一緒に赦しを実践している兄弟たちが助けになる。

 

でも、大丈夫。

 

地獄だと思っていたものは、本当は天国で、

 

自分はすでに天国にいるのだから。

介護と遺産とドラ息子

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僕ら、40代、50代の日本人が抱える問題と言えば、

 

だいたい、子供の問題か、親の介護の問題、

 

そして、遺産問題のどれかに集約される。

 

 

今どきの子供は、二十歳くらいになっても親に向かって、

 

「死ね!」くらいのことは平気で言うらしいし、

 

親の介護にしても、優しくしたいとは思うけれど、

 

疲れている時に、理不尽なことを言われたりすると、

 

溜まっていた積年の恨みなどもあったりして、

 

反抗期の子供のように、きつい言葉を吐いたりする。

 

遺産の問題に至っては、

 

弁護士が全て事務的に解決してくれるくらいの、

 

莫大な資産があるのなら別だが、

 

僕みたいな普通の家庭だと、

 

銀行にある小金や、実家の土地や家の分与を巡り、

 

兄弟の間で、ちまちまと、セコく争うこととなる。

 

 

こんなとき、コース兄弟だと、何はともあれ、

 

自分の心の中を赦すことをやっていくと思うのだが、

 

それでも、最後には、実際的な選択と行動を迫られる。

 

 

もちろん、聖霊に全ての問題の解決を求めた後は、

 

(聖霊による量子の最短化が設定された後は…。)

 

基本、自分は何もしない、というのがベストではある。

 

心の中だけではなく、物理的にも…。

 

きいぃーっ、と〝ひきつけ〟を起こしそうになるが、

 

〝今にいることを連続させてゆく〟ことに集中すれば、

 

物理的に何もしないことも、案外できる(かな?笑)。

 

 

しかし、物理的に何もしない、という意味は、

 

どんな現実が展開されていても、何も言わず、何もせず、

 

石のようにじっとして動かない、ということではない。

 

そこに損得(損失)の考えがあるか、が焦点となってくる。

 

どのような形を取っているように見えても、

 

問題とはいずれも、自分が得をするために誰かが損をし、

 

犠牲を払うべきだという要求だからだ。

 

 

どういうことかというと、

 

みんな、トイレへ行ったり、食事をしたりするが

 

「トイレへ行くとトクだから行ってきます!」

 

とはやっていないはずだ。

 

〝ふっ〟ともよおすからトイレへ行く。

 

〝ふっ〟と腹が減るからメシを食う。

 

聖霊に問題の解決を依頼した後の行動というのは、

 

そういうレベルだと思うのだ。

 

なので、聖霊に問題の解決を求めたあとは、

 

自分の中から出てくる〝ふっ〟に従って行動する。

 

それがたとえ、

 

相手に怒りを爆発させるような言動であったとしても、

 

とっ掴み合いの喧嘩であったとしても、だ。

 

僕たちは、そういうネガティブに見えるような行動は、

 

いけないこと、と思い込んでいるが、

 

してはいけないことが何か、なんて、

 

肉体の僕たちには分からないのだ。

 

聖霊に問題の解決を依頼した後は、

 

目の前に現れる人や、出来事や、

 

心の中に現れる感情を信頼して動く。

 

 

ただ、今の僕は、

 

この世界が自分の心の中で、顕われる兄弟は全て、

 

自分の〝こころ〟そのものに見えているので、

 

兄弟が抱く罪悪感は、自分の罪悪感と感じられる。

 

なので、上記のような事柄に直面したら、まずは、

 

〝5つのこと〟を使って心の中の赦しを行なうと同時に、

 

〝深く寄り添う〟ことと〝相手に罪悪感を抱かせない〟

 

というスタンスを軸にして動くようにはしている。

 

愛情からではなく、愛からの行動というのは、

 

相手に罪悪感を抱かせることなく、ただ寄り添うことだと、

 

深く思うからだ。

 

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これはあくまでも、

 

形態レベルの一例(←ここ強調)なのだが、

 

反抗期の子供が、親である自分に暴言を吐いたとして、

 

それを親が〝自分では何もしない〟スタンスで、

 

ただ、黙って受け入れるだけだったなら、我が子は、

 

無意識の罪悪感を抱いたまま成長することになる。

 

僕も、高校時代は、少々ヤンキー寄りだったので、

 

母親にいろいろ反抗的態度を取ったりしたものだが、

 

幸いにも、僕の母親は典型的な大阪のオカンだった為、

 

「なんじゃ、親に向かってその口の聞き方はぁーっ。

 

 もう一回言うてみぃーっ、メシ抜きや!」

 

と、ホウキを持って追い掛け回されたので、

 

僕は罪悪感を持つことなく成長できたのだと思う。

 

これが、ただ受け入れ、赦すだけの母親だったら、

 

きっと、たまらなかっただろう。

 

 

親の介護だって同じだ。

 

ついつい、きつい言葉を吐いてしまうのも、

 

それはそれでいい、と僕は思うのだ。

 

なぜなら、罪悪感を感じているのは親ではなく、

 

自分であるので、

 

「ええ?またおしっこ?さっき行ったばっかりやん!」

 

「ああ、もうアカン。ヘルパーを頼みたい。」

 

とぶつぶつ言ったほうが、介護される方も気が楽で、

 

外きちっと寄り添えたりする。

 

 

遺産問題にしても、争いたくない、自分が赦せばいいんだ

 

と、兄弟たちの間で、不利な取り分に同意したなら、

 

自分はそれでいいかもしれないが、金銭と同じ分だけ、

 

相手に無意識の罪悪感を押し付けることになる。

 

無意識の、というところが肝心で、

 

相手が、多くもらえて喜んでいようと、

 

そんな表面上のこととは一切関係がない。

 

なので、相手に無意識の罪悪感を抱かせない

 

という観点から言うならば、たとえ修羅場となろうとも、

 

それが〝ふっ〟と起こってそうなったのなら、

 

きちっと話し合って公平に決着させるべきだ。

 

 

心の中だけを赦せばいい、を隠れミノに、

 

さまざまなものを無かったことにしてしまうのは、

 

ちょっと乱暴かな、と思うのだ。

 

なぜなら、すでに聖霊に解決を願ったのだから、

 

その後にどんな〝ふっ〟の想いや行動が出てこようと、

 

それはもう聖霊から差し出されたものである。

 

そこを信頼することが、

 

何もしない、の真の意味だと思うからだ。

 

 

要するに

 

子供、親、親族、が見せてくれるパフォーマンスは、

 

それがどんなものであろうと、正しいのだ。

 

それに対して、自分が持った、

 

強烈な怒り、悲しみ、憎しみもまた正しい。

 

それを否定するのではなく、きちっと一度認識して、

 

すったもんだやるならやって、最後に明け渡す。

 

それに対して、わたしは赦していない、などと

 

思う必要もない。

 

なぜなら、これも聖霊の中で起っている事だからだ。