香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

〝わたし〟が消える日

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「もう、自分にできることは何もありません。

 

 自分が、どうして、ここで、こんなことをしているのか

 

 ということすら、私はわかっていません。

 

  わたしは狂っているのです。

 

  だから、わたしには何も分かりません。

 

    いま、わたしはそれを認め、受け容れます。 

 

    なので、ぎゅっと握って離さなかった執着の拳も、

 

  反射的に攻撃の想いを抱いてしまう心も、

 

  そのままにして、全てあなたに捧げます。

 

  赦しも、明け渡しも、もう自分でやることはありません。

 

  今後、あなたに完全に従います。

 

  一切の抵抗や、もがくことを止めます。 

 

  全て任せますので、どうかよきようにお計らい下さい。」

 

 

いまの僕はもう、

 

完全J兄貴に白旗降伏状態となりつつある。

 

なぜなら、どんなに自分が正気でないか、

 

自分の判断がいかに的外れで間違っているか、

 

また何より、この自分が幻想の一部であったことが、

 

ありありと見えてきたからだ。

 

元来、消えてゆく姿でしかない無の自分が、

 

特別で何でも仕切れる存在である筈がない。

 

 

なので、そのことに、完全に気づいてしまったなら、

 

解決せねば、と思うどんな事が起こったとしても、

 

また、誰かを攻撃して、罪悪感にさいなまれたとしても、

 

自分を攻撃して、病苦の痛みにさいなまれていたとしても、

 

「はい。私は神の代わりに自分を攻撃して、

 

 ハートのエクスタシーを病苦の痛みに変え、

 

 ひとりのた打ち回っていました。

 

 いま、そのことを全面的に認め、受け容れます。

 

 でももううんざりなんです。

 

 もうどうなってもいいですから、

 

 J兄貴のいいようにしてください。」

 

と心からの降伏を捧げるしかない。

 

 

そうなると、

 

私を導いでくださいという祈りでさえ、

 

たんなる自我からの〝指示〟だったと解かる。

 

知覚の修正をして〝わたし〟を正気に戻してください、

 

という〝懇願〟ですら、自我の〝要求〟だったのだ。

 

 

ある偶然から様々な出来事がシンクロし、その結果、

 

思いもよらなかった素晴らしい共振の起こることが、

 

聖霊の采配なのではない。

 

そもそも、

 

何が聖霊の采配かさえ、今の自分には全く解らない。

 

その事実を認め受け容れた時から正気の一歩が始まる。

 

 

ここまで書いて、自分のやってることはなんだか、

 

麻薬患者の更生プログラムみたいだ、と思った。

 

麻薬中毒患者は自分で中毒を治せると思っているが、

 

実際、それは不可能だ。だって、中毒なんだから…。

 

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↑ これらの窓一戸一戸が1億円、

  という中毒患者の幻覚 

 

というわけで、

 

旧正月を間近に控え、香港も慌ただしさを増しつつある。

 

まあ、このまま行けば、の話だが、

 

僕も、春節が明ければ、香港を引き払う準備を始める。

 

家具を処分し、東京で部屋を探し、引越しの手配をする。

 

それさえも、もう、自分にはなにも分かりませんので、

 

J兄貴、よきようにお計らいください、しかない。

 

寂しさも、名残惜しさも、不安も、恐怖も、

 

そのままにして兄貴の前に大の字になる。

 

そこに、なんの要求も置かない。

 

要するに、もう、この夢の世界でどうにかなる事を、

 

心底望まなくなっている。 

 

 

そんなわけで、今回の春節(旧正月)は、

 

降参しきった自分と、静かに過ごすことになりそうだ。

 

 

↓ 混沌の法則関連の記事はこちら ↓

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こうやって過去の記事を振り返ってみると、

 

どうやら僕の2015年は殺意の年だったようだ。

 

しかし、この地獄経由の中で自分の狂気を見つめ、

 

それでも神を求めてきたからこそ、

 

今の完全降伏があるのだな、

 

と感慨を新たにした今日この頃である。

 

 

始まる前から終わっていた

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昨日は香港事務所の忘年会だった。

 

香港では、2月5日の旧正月に向け、

 

じわじわと春節ムードが盛り上がりつつある。

 

 

今回の忘年会は、僕が仕切り、

 

会社近くにある、川沿のドイツ料理店を予約した。

 

ガスストーブが焚かれたテラス席で、

 

ソーセージをつまみに、ワインやシャンパンを飲みつつ、

 

夜遅くまでわいわい語り合った。

 

 

中でも、香港の高度な自治がいかに風前の灯か、

 

といった中国の思想統制について熱く語り合った。

 

その中で、台湾は中華圏における最後の民主の砦だ、

 

という話になり、僕も台湾へ移住したくなってしまった。

 

 

赤ワインが三本空き、シャンパンを注文した頃、

 

全てが、ただの消えてゆく映像に見えはじめた。

 

撮り終えた映像の中を漂っている感覚…。

 

時間という幻想だけを頼りに成立している世界を、

 

僕達は信じてまい進している。

 

今日のこの映像も、記憶としてファイリングされ、

 

思い出さない限り〝無〟となる。

 

もう時間を信じない、と僕が決断するだけで、

 

映像は消えるしかなくなる。

 

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というわけで、僕の知覚も、また、新たな段階に突入した。

 

 

自分は〝始まる前から終わっている世界〟の中にいた、

 

ということが、バッコーンッ、と真実として見えたのだ。

 

 

〝神の世界から離れたらどうなるかなあ〟と思った瞬間

 

天国も、実相も、父も、キリストも、全てが消え去り、

 

〝うわっ、やってもうた。全部失った!どうしようーッ?〟

 

と、強烈な喪失感と罪悪感からくる不安と恐怖と共に、

 

僕達はこの幻想の世界にやって来たと思っている。

 

しかし、実際には〝あっ、やばい〟と思う前に、

 

父とキリストによってこの間違いは削除されている。

 

そして、すでに終わり、消えて無い〝妄映〟の世界に、

 

いまだ僕たちは没入し、すったもんだやっているのだ。

 

 

こうやって書くと、知ってる、解かってる、と言いたくなる。

 

しかし、その事実そのものを〝生きて〟はいなかった。

 

ただ知っているだけで、やはり世界はある、として、

 

日常の中ではやはり、どうしたこうした、とやっている。

 

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それが、先日の〝宜保愛子と残業〟の翌日、

 

自分はいま、すでに終わってる世界にいて、

 

すでに取り消されて無いはずの世界を見ている、

 

ということに、はっと気づいたのだ。

 

この机も、このスマホも、あの人もこの人も、これもあれも

 

うわっ、これ全部、もう終わってる映像じゃん、と…。

 

始まる前に終わっているのだから、全部幻で、

 

信じる必要などなく、無意味なただの妄映でしかない。

 

そのことが、真にリアルに腑に落ちて入った瞬間、

 

仕事がどうでも、誰々がどうでも、知覚がどうであっても、

 

もうそんなことはどうでもいい、と心底思えた。

 

そして、もうここで深刻になる必要はないんだ、

 

と思った瞬間、言い知れない安堵感が込み上げてきた。

 

ウソで、虚構で、完全にでっち上げられた世界に対し、

 

一切の抵抗を止め、ただ終わってゆくに任せておく。

 

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完全に、幻想の外へ出てしまった感覚。

 

そこから幻想を見ている。

 

だからもう 「そうは言ってもさあ。」 という反復もない。

 

 

そんなことは微塵も起こっていなかった、と、

 

真に解かって世界を見ていれば、映像に意味は無くなり

 

どんな現実も自動的に消えてしまう。

 

消えてしまうことが解かっている状態…。

 

ここは神で、天国で、実相だった、という事実が、

 

より強化された感じがする。

 

と同時に、父や聖霊との交信を阻んでいたのが、

 

特別性と個別性だったことも見えてきた。

 

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私のこの車、私のこの人生、私の大切なあの人、または、

 

あの人はいいけどこの人はダメ、男はいいけど女はダメ、

 

自分は日本人、彼は中国人、私はチーズが嫌いな人、

 

私の得意なものはピアノと語学です、などなど、

 

人生は、自分が特別な個であることに費やされている、

 

と言っても過言ではないだろう。

 

そして、個として特別であろうとするその意識が、

 

終わっているはずの世界をリアルにし、永続させている。

 

これは、神からの救済を拒んでいることを意味する。

 

別の言い方をすれば、救済されるのが嫌だから、

 

個であろう、特別であろう、と必死で頑張っているのだ。

 

 

しかし、それは無駄な抵抗だ。

 

だってもう、世界は始まる前に終わっているのだから。

 

終わっている世界で何をやっても無駄である。

 

そう、自分はもう、消えている!

 

↓ 混沌の法則についての記事はこちら ↓

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これ、もう終わってるじゃん!

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奇跡は続き、今週も、香港でお仕事である。

 

小切手を切る、財務諸表を確認する、報告書を書く、

 

出張の手配、会計士や弁護士とのやり取り、など、

 

次々とやってくるデスクワークをこなしながら、

 

大量の業務メールに返信を返してゆく。

 

 

会計士からの、記帳代金の支払いはいつになるのか、

 

という督促メールに、増値税還付手続きが終わらないと、

 

代金は支払えない趣旨の返信をする。

 

株価がいくらになったら売りを再開できるのか、

 

というコンババ部長からの問いに、

 

いくらいくらになったら再度検討しましょう、とメールする。

 

また、請求書の金額が違っている、というクレームには、

 

すでに正しいものと差し替え済みだ、と返す。

 

 

これ以上でもこれ以下でもない返信を乱打していた時、

 

はっ、となってキーボードを打つ手が止まった。

 

 

「ああ、これ全部、自我の思考で自動的にやってる。

 

 まるで電気信号のように、無意識に動いている。」 

 

 

他の仕事をしている人も多分そうだと思うのだが、

 

仕事をしている時って、大概、

 

こういう場合は、こういうふうに対処する、とか、

 

こう言ってきたら、こういうふうに返す、というように、

 

あらかじめ身についた経験値で自動的に動いている。

 

普段のプライベートな自分だったらこんな事はしないし、

 

言わないのに、いざ仕事となると、

 

まったく別人のような言動を取れたりする。

 

それも、何の無理をすることなく、自然に…。

 

いわゆる、仕事モード、というやつだ。

 

 

これまで僕は、仕事の内容はあまり重視せず、

 

仕事を通して対峙する兄弟との赦しをメインにしていた。

 

そのため、仕事そのもののやり方については、

 

全て聖霊の中で起こっていることだとして、その都度、

 

湧きあがって来る〝ふっ〟に任せて判断し行動してきた。

 

 

だが、ここへきて、仕事ではこうするのが当たり前、

 

という、自分で決めたルールを、仕事中にだけ適用し、

 

ルーチンのように遂行していたことに光を当てはじめた。

 

その仕事モードが見せる自動反射的行動はまさに、

 

偽りの解決方法そのものだった。

 

 

〝あなたは依然として自分で心を決めている。

 

 そうしておいて、その後で、

 

 自分が何をすべきか尋ねるという決断をする。〟

 

(『奇跡講座』第30章-Ⅰ.決断のためのルール)

 

 

本当にそうだと思う。

 

それも、無意識のなかで、自動反射的に決断している。

 

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仕事も職場も幻想であり、終わってしまった夢である。

 

そう、もう全ては終わっているのだ。

 

どう対処したとしても、それには何の意味もない。

 

要するに、

 

仕事も、職場も、人間関係も、何も起こっていないのだ。

 

始まる前から終わっている世界で、

 

対処することに一体何の意味があるというのだろうか。

 

 

もう、自分が外へと追いやった罪と格闘することで、

 

これ以上、悪夢を長引かせたくない、と心底思った。

 

 

多分、これからも普通に仕事をしてゆくだろう。

 

それでももう、終わっている世界の中を生きている。

 

そこには、

 

これは自我の考えだ、という判断(認識)すら存在しない。

 

愛の想念か、愛を求める要求か、どちらかでしかない。

 

それが真に聖霊の中に在る、ということなのだ。

 

そのことに気づけて、本当に嬉しい。

 

 

自分は狂っていて、何も解らず、何をやっても失敗する。

 

その事を全面的に認め、聖霊に白旗を挙げて何もしない。

 

これを、会社の業務でも適用し始めている自分に、

 

ちょっと、いや、かなりドン引きしている。

 

自我の常識で行けばそんなの絶対に無理だし、

 

特に会社員がそれをすれば、業務が破綻する。

 

でももう、一秒だって聖霊でない時間を過ごしたくない。

 

 

ひょっとして、これまで赦しが完結するごとに、

 

僕の眼前から消えて行った、無数の会社兄弟たち同様、

 

いまの仕事まで消えてしまうのか。

 

 

こ、こわい。