香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

注目の眼差し

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↑ お気に入りのマイヤーズラムがどこも品切れなので、

   キューバのハバナクラブを試してみる。

   あっさりしていて、香りもよい。

 

土曜日は雨が降っていたので、家でまったりと過ごした。

 

コーヒーを淹れ、ひとしきり書き物をした後、WOWOWで、

 

恐怖映画を観てから、宅配のベトナム料理を食べた。

 

夜は、加藤三代子氏のフォーラムを学習しながら、

 

ラムロックをちびちび飲んでいると、酔っぱらった。

 

ここのところ、いろんな所へ行きまくっていたので、

 

久しぶりに家でのお籠り休日を楽しんだ。

 

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↑ 宅配ベトナム料理。なぜか二人前来たよ。

   土曜と日曜の二日に分けて食べる。

 

最近、与える、とはどういうことかと考えたとき、それは、

 

相手に全力の〝注目〟を向けることだ、と、ふと思った。

 

人だけではなく、草木や、建物や、街の喧騒など、

 

見えたり聞こえたりするものに注目を以って寄り添う。

 

それだけで、すでに与えているのではないか、と…。

 

 

僕たちは、日々の生活の中で、あまりにも簡単に、

 

周囲の人々の言動や風景を軽く〝いなし〟過ぎている。

 

僕のように仕事で忙しかったり、また逆に、

 

生活があまりにゆったりしすぎていたり、

 

歩いている時にもスマホに目を落としていたりすると、

 

やってくるものに対し、無知覚になってしまいがちだ。

 

 

相手にちゃんと〝注目の眼差し〟を向けることによって、

 

そこから浮上してくる様々な〝個の想い〟を直視できる。

 

その中で、相手を咎めたり、裁きたくなったり、または、

 

自己の正しさを主張したくなったりしたとしたら、

 

その想いはどこから来ているのか、ということに気づいて

 

心(決断の主体側)へ向かう動機とする事が可能となる。

 

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↑ いまは、グアテマラコーヒーを飲んでいる。 

 

実は、先日の佛山出張でも、

 

このスタンスで現地の会計士と向き合っていた。

 

彼女は国税登記を抹消するには、増値税130万元

 

(約2000万円)を支払わなければならないと主張する。

 

普通、会社が雇った会計士なら、会社の為に、

 

いろいろな減税処置を行なってくれるはずなのだが、

 

彼女はただ「払え」と言うばかりだ。

 

まあ、長年中国で仕事をした人ならわかると思うが、

 

この130万元の中には彼女の取り分も含まれている、

 

と容易に推察できる。

 

 

打ち合わせの間、ずっと決断の主体の位置から、

 

自分の反応も含めて、この〝戦場〟を観ていた。

 

その間も、心は、聖霊と自我を行ったり来たりする。

 

税金がどうのこうの、というやり取りをしながらも、

 

相手の信じている間違った思考体系を見て、

 

それに対し、自分はただ聖霊の思考体系を示し続ける。

 

それは、心の中だけで行なわれる行為であり、

 

物理的に自分は何もしない。

 

相手が差し出すエゴの思考体系を使って、

 

自分の思考体系を真実にしてゆくのだ。

 

その過程で、正しさを主張する自分や、

 

防衛するために攻撃する相手を咎めたくなる自分

 

が出てきても、裁くのは自分の仕事ではない、と、

 

自我に断言する。

 

もちろん、表面上は普通に会社員としての対応をする。

 

でも、その間『家を売るオンナ』の北川景子のように、

 

両目をカッ、と見開き、相手に〝注目〟し続ける僕に、

 

相手の会計士も、かなりビビり気味だったのは確かだ。

 

 

と言っても、〝その最中〟は、

 

戦場を直視することだけで精いっぱいなのだが、

 

帰りの社用車の中で、改めて決断の主体へと入り、

 

本当の原因は分離を信じたことにある、

 

と思い出してゆく。

 

自己も他者とのやりとりも、

 

全てここ〝一点〟だけでやっている一人芝居だ、

 

という位置から観て、聖霊へと選び変えてゆく。

 

 

まあ、文章にすると何だかややこしいが、

 

こんな風なことをだいたい10分くらいでやり、

 

その後は、ずっと、分離など起こっていなかった、と、

 

聖霊と共にハートの中で過ごす。

 

 

このように、現実世界を教室として使い、

 

心へと戻る動機としている今日この頃であるが、

 

以前と違ってきたのは、相手に動揺しなくなったことだ。

 

いずれは相手も必ず天国へ帰る身であり、

 

それはもう時間の問題だと解かっているので、

 

同じ神の子として、安心して対峙することができるのだ。

 

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そう言えば、今週21日は春分の日だ。

 

毎年、この日はなぜか、

 

めまいが酷かったり、すごく眠かったりと、

 

何かと体調が狂うのがわかっているので、

 

思い切って代休を取ることにした。

 

 

まあ、働き方改革の一環で、今年から、

 

正社員は年間5日以上有休を消化しないと、

 

企業に罰金が科せられるようになった。

 

 ありがとぉーっ!安倍総理

 

あのころ

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↑ 西九龍駅からの風景

 

今日は、広東省の佛山へ日帰り弾丸出張に行ってきた。

 

佛山工場の国税抹消手続きがまだ終わっておらず、

 

その話し合いをするため、地元の会計士を訪ねたのだ。

 

佛山工場を閉鎖したのが2017年8月だったから、

 

もう、かれこれ2年近くの月日を経たことになる。

 

 

もう一度、あの頃の記事を読み返してみると、

 

その時代を懸命に赦している自分がいた。

 

当時、自分が何を隠しているのかを見せてくれ、

 

赦しが完結すると同時に消えて行った兄弟たちには、

 

本当に感謝しかない。

 

僕がいま、比較的容易に決断の主体まで戻れるのも、

 

赦させてくれた兄弟たちのおかげだ、と言える。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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二時間ほどで打ち合わせを終え、

 

去年開通したばかりの高速鉄道を試そうと、

 

社用車で広州西駅へ向かった。

 

切符売り場を探すが、駅があまりに広すぎて、

 

どこに何があるかが全く分からない。

 

そこらにいる人に訊きまくり、行列に並んで、

 

なんとか切符を買うことができた。

 

 

速い、速すぎる。時速400キロ出てる。

 

これまで2時間半かかっていた広州 - 香港間が、

 

たった50分で着いてしまった。

 

中国側の出国手続きも、全て香港側で行なうため、

 

中国の公安の制服を着た警官を香港側で見た時には、

 

ちょっと違和感、複雑な気分になる。

 

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↑ 香港行きの列車を待つ人々 

 

このように、現実世界は、時事刻々と変化してゆく。

 

それで、最近、ようやく納得したのが、

 

幻想のカタチが変わることに意味はない、ということだ。

 

 

どういうことかというと、

 

例えば、お金のない人が、何かのきっかけで、

 

突然お金持ちになったとする。

 

それを、決断の主体から観ていると、

 

お金が無い、という幻想の形態が、

 

お金がある、という別の幻想の形態に変化しただけだ、

 

というふうに捉えられてくる。

 

一つの幻想が、別バージョンの幻想に移行しても、

 

どちらも同じ幻想であり、従って、実在から見れば、

 

両者には結局、何の差異もない、と知覚されてくるのだ。

 

 

別に、この世で幸せになるのを否定する訳ではないが

 

この世のレベルでの変化は真の変化ではない。

 

真の変化は心のレベルでのみ可能だからだ。

 

 

なぜなら、この世の幸せは一時的なものであり、

 

どんなに素晴らしい時間を過ごせたとしても、

 

また、どんなに夢が叶い、幸せになったとしても、

 

幻想は必ず別の形態に変化するし、分離をする。

 

よって、次の瞬間には別のモノになってしまうものに、

 

意義を見出すことは不可能である。

 

 

「別に幻想レベルで幸せであってもいいじゃん。

 

    この世界での愛や調和を感じて何が悪い。

 

    だって、もともと神の子には罪など無いのだし、

 

    必要な赦しは、聖霊が差し出してくれるのだから。」

 

 

全くその通りである。

 

しかし、自我の世界での苦しみと幸福、葛藤と平安は、

 

変化することに於いて、同等であるが故に幻想である。

 

なので、実践を続けていくと、いつかは必ず、

 

私の愛、私の子供、私の家、私の大好きな仕事、などを

 

ひとつ残らず、手放してゆく時が来る、と断言できる。

 

なぜなら、これらを持って、戻っては行けないからだ。

 

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僕の場合、

 

決断の主体から、ハートのエクスタシーに入るたび、

 

もう実存だけでいい、早くこの幻想の牢獄から出たい、

 

と心底思う。

 

 

この世界の幸せも、愛も、調和も、必ず最後は分離する。

 

なので、今の僕には、そんなものはもう必要ないので、

 

完全に〝ひとつの心〟(原因)へと戻り、

 

聖霊と一体となって、天国へ戻る道を選択する。

 

 

もちろん、日常では、たくさんの葛藤が上ってくる。

 

でも、それも、僕に観とめられるために出ている。

わ・た・し・が、やりました!

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3月の香港は、ずっと雨が降っていて、気温も16度、と、

 

じめじめした肌寒い毎日が続いている。

 

この時期は、壁などに結露ができ、カビが発生しやすく、

 

革のカバンや、紺の背広からは白いカビの粉が吹く。

 

お手伝いのチョイ姐が、〝水取り象さん〟を、

 

クロゼットにセットしておいてくれるが効果はイマイチだ。

 

仕方なく、寒いのを我慢して、エアコンで除湿をする。

 

来月東京出張が入ったので、陰気な香港を離れ、

 

サクラの季節に合わせて行こうと計画している。

 

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というわけで、

 

自我が絶対に知られたくないこと、それは、

 

父からの分離は、はなから起こっていなかったが故に、

 

僕たちは決断の主体へ戻りさえすれば、

 

いつでも自我から聖霊へ選び変えることができる、

 

という真実である。

 

 

その真実に気づかせないために、

 

自我は全力で、様々なトリックを用いながら、

 

僕たちを決断の主体まで戻らせないようにする。

 

 

そのトリックのひとつに、脅しによる恐怖、がある。

 

神から罰せられる、という原因に起因する恐怖、

 

果ては、突然犬に吠えられた、スマホが壊れた、

 

誰かから攻撃される、といった幻想レベルの恐怖まで、

 

僕たちはもう、あらゆるものを怖がっている。

 

そして、あらゆるものを怖がっているのは、

 

神を恐れている、ということの反映であるので、

 

僕たちは、神へ帰ろう、とは絶対に思わなくなる。

 

 

ふたつ目のトリックは、幻想の愛と平安、だろう。

 

「この人(恋人/子供)がいるからわたしは幸せだ。」

 

「わたしは、大好きな人に囲まれ、穏やかで恵まれた

 

毎日を過ごしている。」

 

といった、何かが起こることで得られる幸せや、

 

限定的な愛に、僕たちの意識を留めておくことで、

 

本当の愛や平安に気づかないようにさせる。

 

 

 

また、

 

原因まで戻った赦しをするようになって目撃したのは、

 

神の愛を拒否した、天国から離れた、という妄想を、

 

〝自分が率先して〟信じた、という事実だった。

 

 

罪悪感は〝自分が信じた〟がために生じたのだ。

 

 

分かり易く言うなら、

 

『家売るオンナの逆襲』に出てくる北川景子のように、

 

「聖霊でも自我でもなく、わ・た・し・がやりました。ゴー!」

 

という感じか。

 

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〝罪悪感が造りだされた場所〟まで戻り、

 

神からの分離を信じた、という瞬間を直視してみると、

 

全ての原因は〝わたしが信じた〟ことに起因していた

 

ことを、しみじみ実感する。

 

と同時に、事実ではないことを信じたのだから、

 

選び変えることができることも分かってくる。

 

 

そして、このプロセスをを辿って選び変えるまでが、

 

今の僕にとっての赦しとなっている。

 

 

そうやって、心の中に留まる時間が増えてくると、

 

現実世界の状況とはまったく関係のない平安、

 

エクスタシーにも似た理由のない多幸感に満たされる。

 

その感覚で兄弟たちと接すれば、みんな例外なく、

 

神の子であり、何ら差異はないことが分かり、

 

有難い気持ちで一杯になる。

 

 

仕事は忙しいし、帰任の準備も始まるし、

 

赦しのレッスンは次々に差し出されるにもかかわらず、

 

それでも、心の中は平安の光が射している。

 

 

結局、心の中の〝あの場所〟だけが全ての原因で、

 

そこで選び変えれば、全ては逆転する。

 

映像にはなんの力もない。

 

 

だが、僕は、

 

この決断の力を使って、現実を変えようとは思わない。

 

なぜなら、ハートのエクスタシーを知ると、

 

そんな現実のことなど、どーでもよくなってしまうからだ。

 

神だけでいい、真剣にそう思える今日この頃である。