香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

天国の揺さぶり

f:id:shusaku1:20190424123826j:plain

 

今週は月曜からフィリピン出張だった。

 

初日の午後、工場のオフィスで仕事をして、

 

そろそろホテルへ戻ろうかな、と帰り支度をしていると、

 

ぐらぐらぐらっと部屋全体が揺れ始めた。

 

次第に揺れは激しくなり、テーブルのペンが転げ落ちて、

 

立っていられないほどになった時、地震だ、と気づいた。

 

 

逃げろ、という誰かの声を聞いて、工場の外へ出た。

 

日本でもあまり経験のないくらいの大きな地震だった。

 

地震慣れしていないフィリピンの人たちは、

 

泣き出したり、中には失神してしまう人もいて、

 

一時、工場は騒然となった。

 

f:id:shusaku1:20190424123847j:plain

 

それにしても、突然、大きな災害に見舞われると、

 

人って、頭が真っ白になり、一歩も動けなくなるんだね。

 

僕も、誰かが発した、地震だ逃げろ、の一声で、

 

ハッと我に返り、身体を動かすことができた。

 

だから、なにか、突発的な出来事が起こった時は、

 

みんなで声をかけ合うのが何より大事だ、

 

と、今回の経験から痛感したのだった。

 

f:id:shusaku1:20190424123837j:plain

 

ホテルに戻り、ニュースを見てみると、

 

今日の地震は震度6弱だった。

 

工場のあるスービックから二時間ほどの距離にある、

 

クラークという街の被害が最も大きく、

 

家屋が倒壊するなどの被害が出ているという。

 

クラークは、空港のある場所でもあったので、

 

帰りの飛行機が飛ぶのかどうか心配していたら、

 

案の定、空港は閉鎖され、便はキャンセルとなった。

 

f:id:shusaku1:20190424123831j:plain


夜、二時頃に余震で目覚めた。

 

それから、また、心臓の奥が〝ざわざわ〟しはじめた。

 

それはやがてドキドキからズキズキへと変わった。

 

地震の恐怖に対してズキズキしているのでもなければ、

 

外側の出来事が原因で動揺しているのでもなかった。

 

ただ、今回の地震が引き金となって、僕の心の中から

 

何かが揺さぶり出されてきたような気がした。

 

 

僕の心の中も震度6弱で揺れている。

 

その意味不明な心の中の揺れを、じっと見つめる。

 

聖霊兄貴の光の中で、ただ感じて差し出し続ける。

 

そうこうしているうちに、いつの間にか眠りに落ちた。

 

f:id:shusaku1:20190424123857j:plain

 

結局、クラーク空港が閉鎖になったので、

 

マニラから香港へ戻ることになった。

 

朝5時に起き、工場の社用車でマニラ空港へ向かった。

 

鉄道のないマニラの街は常に渋滞している。

 

車窓から、混沌としたマニラの街並みを眺めつつ、

 

自分はなんでこんな夢を見ているのだろうと思った。

 

この世界、何の意味もない、と心底思った。

 

 

今日の地震も、ひょっとして、

 

こんな無意味な夢を見るのを止めて目を醒ましなさい、と

 

夢の外から、ゆさぶりをかけられているような気がした。

 

それはちょうど、

 

ベッドで眠っている本人が小便に行きたくなったとして、

 

本当は夢から醒めてベッドから起き上がり、

 

トイレまで歩いて行って小便をすればいいのに、

 

それを夢の中でやっているのに似ている。(笑!)

 

 

「あっ、自分は一切を与えられている神の子だったんだ。」

 

という、大いなる自覚が〝ふっ〟と去来した。

 

 

つづく…。

 

 

愛を動かさない

f:id:shusaku1:20190421010309j:plain

↑ 夕方の地下鉄。オッサンだらけ。

 

 

今週はいろいろ内面的な部分でシンドかったが、

 

復活祭の連休を家でゆっくり過ごすうち、

 

ようやく、普段の落ち着きを取り戻せた。

 

もう〝連休に救われた感〟がハンパなく、

 

それは、街中で下痢がピークに達した時に、

 

やっとトイレを探して駆け込んだ時の安堵感に似ている。

 

 

そして、ここ数日のきつい体験から、

 

心の中の自我をただ直視することこそが、

 

自我を警戒することになる、と学んだ。

 

またそれは、今この瞬間を直視することでもある。

 

なぜなら、見るという行為は、

 

〝今〟ここに顕われてきているものを、

 

凝視する行為そのものだからだ。

 

 

乗ろうと思っていたバスが行ってしまった、

 

あの人のやり方より、自分のやり方の方がうまく行く、

 

あの時、あの人に言われた一言が、ふっと蘇ってきた、

 

あの人が言っていることは、ちょっと違うと思う、または、

 

うまく行った、褒められた、愛が溢れ出した、などなど、

 

道を歩いているとき、仕事中、誰かと話している時、

 

心の中に顕われるものを、ただ捉え、認識し、見つめる。

 

光をイメージ、などといった余計な小細工は一切しない。

 

その瞬間、自動的に時間は消滅している。

 

今この瞬間に在り、自然と自我に警戒している。

 

 

f:id:shusaku1:20190421010313j:plain

↑ たまには贅沢しようと、高級スーパーへやってくる。

   一切れ1200円のチーズを見て退散。
 
 

 

自分で何とかしよう、とか、理解しようとする意識を挟まず

 

ただただ、聖霊の光の中で、手放しで観る。

 

観ている対象に罪悪感を感じたなら、

 

それもまた、手放しで、聖霊とともに注視する。

 

見ることに意味を見出そうとするその動きも、また見る。

 

 

すると、何日かのタイムラグを置いて、

 

自分の中(心臓の奥あたり)に、なんだか懐かしいような

 

愛そのもののような感覚が満ちてくる。

 

言葉で表現できない為、愛そのもの、としか書けないが、

 

それは、僕たちが考えている愛や感謝の感覚とは、

 

全く違うものだ。

 

 

どういうことかというと、

 

心の中の深い部分から延長されてくるこの愛の感覚は、

 

外界に対して何の影響も及ぼさず、

 

幻想世界から完全に独立した、全く別個のものだ、

 

ということである。

 

 

だから、この、内なる愛の感覚を通して世界を見よう、

 

または、外の世界を愛と感謝で満たそうとしているのは、

 

他でもない、自我の自分であったと気づくこと、

 

それが決定的に大切となってくる。

 

 

愛を動かさない。

 

愛を使って何かを見よう、しよう、とした時点で、

 

それはエゴに変わる。

 

f:id:shusaku1:20190421010319j:plain

 

しかし、こうやって文章にすると、どことなく、

 

必死で実践しているような印象を与えてしまうが、

 

根本的に僕は実践が〝好き〟である。

 

なので、悲壮感や、頑張る感、は少しもない。

 

それに、僕の場合、アンフィニ時代もそうであったが、

 

決して結果を出すためにやっているわけではないのに、

 

実践すると、必ずなにかしらの目に見える結果が出る。

 

 

というわけで、今日はイースター初日の金曜日。

 

一日中大雨で、昼の2時なのに、夜みたいに暗い。

 

でも、大雨の日に安全な家の中にいるのって、好き。

 

そう言えば、ここ一週間、お酒を一滴も飲んでいない。

 

おお、これこそ奇跡だぜ!

 

自我の逆襲

f:id:shusaku1:20190412001737j:plain

 

自分の言動や思考を捉え、ただ見つめていると、

 

全てが自我の力動で動かされていることに気づく。

 

神経由のものなど、ほんと、何ひとつない。

 

これら、心の中の自我を捉えては、ただ直視してゆく。

 

自己を一歩退かせ、聖霊にスペースをゆずる。

 

 

会計事務所から来た見積もりを見て、高い、と思う。

 

〝高い〟と思った時に感じる〝これ〟を注視する。

 

次に、会計事務所に電話をし、値引き交渉をする。

 

夢を実在化させている自我の〝これ〟をじっと観る。

 

それだけ…。

 

何もしないことで聖霊に場所を空けるのだ。

 

 

が、そんな感じで心の中を見つめていると、

 

だんだん精神的に辛くなってきて、

 

ヤバい、と思った時にはすでに後の祭りだった。

 

f:id:shusaku1:20190410000113j:plain


 
外側ではこれと言って何も起きていないにもかかわらず、

 

胸を締め付けられるような不安感や恐怖に襲撃される。

 

もう、コーヒーを飲んでるだけで、胸がバクバクしてくる。

 

ほんとうに、会社を休もうか、と考えたくらいだ。

 

自我の向かい風(逆風)が吹き始めたのだな、と思った。

 

 

不快感がピークの時には、

 

奇跡講座をやってなければ、こんな事にはならなかった、

 

奇跡講座も何もしてない人の方が平安ではないか、

 

奇跡講座なんかやめてしまおう、と考えるほどだった。

 

自我を直視しているだけで、毒素が増幅してゆくのだ。

 

ワプニックという名前を聞いただけで吐き気を催す。(笑)

 

くうぅーっ! き、きつい、発狂しそう…。

 

 

何故このような事態に陥っているのかさえ不明である。

 

これはひょっとして、

 

真の赦しを始めた自分に対し、もう友達のふりはしない、

 

と、自我が本気の抵抗を始めたのかもしれないし、

 

または、正しい軌道にいることの証明なのかもしれない。

 

 

でも、うう…、

 

外側に原因を見いだせない葛藤を前に

 

「なんじゃ、こりゃー!」と、

 

松田優作演じるジーパン刑事のように叫んでしまいそうになる。

 

 

それでも、動かず、叫ばず、

 

聖霊と共にその毒素のような葛藤を直視し続ける。

 

それ以外は何もしない、ていうか、できない。

 

兄貴お願いします、や、知覚を修正してください、も無い。

 

ただ、出てきているのものを抑圧、隠蔽せず、

 

両手を挙げ、正直にJ兄貴へ丸ごとさらけ出すだけ…。

 

f:id:shusaku1:20190306010313j:plain

 

大きな葛藤の塊をJ兄貴と一緒に眺めつづけると、

 

そこが、聖霊兄貴がいる場所、すなわち、

 

〝いまこの瞬間〟だということに気づいた。

 

次に有り難いような、愛おしいような、嬉しいような、

 

包み込まれるようなハートのバイブレーションが、

 

心臓の中心から紡ぎだされてくるのを感じた。

 

それを境に、少しずつ〝発作〟はなりを潜め、

 

心に冷静さが戻ってきた。

 

↓  昔も同じような体験が…。でもいま思えば、

 こんなの逆襲の内にも入らないカワイイものだった。

blog.hoshitani-shusaku.com

 

というわけで、今週は、外界より内面がきつかった。

 

でも、理由のない苦しみって、本当に辛い。

 

だって、自分で解決のしようがないんだもん。

 

 

幸い、明日からイースター(復活祭)の連休が始まるので

 

家でゆっくり、静かに休養を取ろうと思っている。

 

 

J兄貴、

 

復活してくれて、ほんとに感謝だよ。

 

 

つづく…。