香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

君は兄貴を憶えているか

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火曜日にTBSでやってる 『わたし、定時で帰ります。』

 

というドラマの中で、主演の吉高由里子が、

 

どんなに忙しくても、ちゃんと定時で帰れるように、

 

様々な工夫をしているのを見て、自分も真似てみた。

 

 

小さな付箋に今日やる仕事の内容を書く。

 

このとき、誰々に電話をする、というような些細な用事も、

 

一つの仕事として付箋に書いてゆく。

 

次にその付箋を、やっていく順に並べるのだが、

 

雑用のような小さな仕事は前に持ってきて、

 

腰を落ち着けてやるメインの仕事は後ろに持ってくる。

 

そして、順番が決まったら、何時から何時まで、と、

 

時間を書き込み、パソコン画面の右端に貼ってゆく。

 

決めたらもう、何としてもその時間内にやり遂げる。

 

また、その間は、付箋に書かれた以外の仕事はしない。

 

途中で、別の重要な仕事が入っても、

 

今やってる仕事を中断してそれをやるのではく、

 

内容と時間を付箋に書き、PCの横に貼り、

 

今の仕事を続ける。

 

終わった仕事の付箋は剥がして、どんどん捨てる。

 

メールなどのチェックも、その時間が来るまでしない。

 

要は、今やってることを中断して他の事をしない、

 

新たな仕事は付箋に書き、必ずその順番にやる。

 

 

やってみて驚いた。

 

頭を使わないルーチン仕事を先に片づけるので、

 

その後で落ち着いてメインの仕事に取り掛かれるし、

 

各仕事を頑張って少しずつ早く終わらせることで、

 

時間に余裕ができる。

 

今日は多分残業だな、と思っていたのに、な、なんと、

 

6時きっかりに全ての仕事が終わってしまった。

 

 

おおっ、さっすが、吉高由里子、すごいっ!

 

トリスのハイボールを飲んでるだけのことはある!(笑)

 

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とまあこんな感じで、今週はオフィスでお仕事をしている。

 

それで昼休み、お弁当の鶏の胸肉を食べながら、

 

ワプニック氏の『奇跡の原理』を読んでいると、

 

原理15に次のような文章があった。

 

 

〝毎朝、「聖霊よ。今日一日、私と共にいて下さい。」

 

 と祈った後、一日の中の、それ以外の時点では、

 

 聖霊について考えないなら、それは魔術です。

 

 (中略)その後も一日中、

 

 聖霊について考えるべきだということです。

 

 そうでなければ、あなたは、

 

 ただ自動操縦モードに入れば全てがうまくいく、

 

 という希望を抱くことになるからです。〟

 

 

そう言えば、

 

葛藤や苦しみを伴うような感情を抱いていない時、

 

または、

 

心穏やかで平和な時間を過ごしている時って、

 

聖霊を忘れているかも…。

 

 

一日中、どんな瞬間も聖霊を思い出していること、

 

聖霊の心眼(ビジョン)を通して、毎瞬、毎瞬、

 

自分が何を投影しているかを自覚しながら生活する。

 

こうやって、食事をしている時も、テレビを視ている時も、

 

仕事をしている時も、誰かとお喋りをしている時も、

 

ずっと聖霊を憶えていることで自我に警戒してゆける。

 

 

この文章を読んで、僕はとてもワクワクと嬉しくなった。

 

自分が思い出しさえすれば、

 

聖霊(J兄貴)は即座に僕たちと共に寄り添ってくれる。

 

そうやって、僕が実在させている投影を共に観ながら、

 

それは起こってないんだよ、と優しく導いてくれるのだ。

 

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で、午後から早速、実践してみた。

 

聖霊兄貴を〝意識的〟に想い出しながら、

 

エクセルの数字を分析し、メールを読み、

 

コーヒーを淹れ、元コンババ部長の電話に応対する。

 

 

まあ、今日は事務所に僕一人だったこともあるが

 

以前は、すぐに無意識状態になってしまっていたのに、

 

今では、ちゃんと聖霊を中心に据えながらも、

 

普通に仕事や生活ができている。

 

ちょっと感動…!

 

ワプニック氏が言うように、聖霊と共に在るために、

 

心を訓練していくことは大切なのだな、としみじみ思う。

 

 

こうやって、聖霊の事を考えている状態のとき、

 

ここが夢だ、とちゃんと認識でき、

 

自分が世界に投影しているものを冷静に直視でき、

 

そして、周囲に平安を与えていることが自覚できる。

 

自然に、ふっ、と湧いてくる個の想いも、

 

咎めずに眺めることができる。

 

 

気がついたら、

 

普通に生活をしながら、決断の主体にいた。

 

ていうか、決断の主体の中で生活していた。(笑)

 

 

こうやって、聖霊を忘れずに24時間を過ごすことは、

 

神の国を護るために警戒することでもある、

 

と学んだ一日であった。

 

 

よし、しばらく、これでやってみよう。

 

( ↑ ずっとやれよ!)

 

 

奇跡講座のエゴ

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連休四日目、今日13日はブッタの誕生日である。

 

この日は、午後三時からトレーナーと筋トレだったので、

 

昼食後にセントラル(香港の六本木)のジムへ向かった。

 

80キロのバーベルでスクワットを5セットこなし、その後、

 

70キロの鉄アレイでダンベルプレスをし、胸を鍛えた。

 

今月は、引き締め月間のため、トレーナーの指示で、

 

ご飯類、麺類、パン類、菓子類、などの炭水化物を、

 

一切断っているので、身体はかなり締まってきている。

 

なんか、身体の事も、赦しの事も、全部、人任せである。

 

 

今日は、連休で時間があるので、じっくり、

 

コースの中のエゴについて書こうと思う。

 

誤解を避けるために先に述べておくならば、

 

以下の文章は、決して、特定の誰かへの攻撃ではなく、

 

あくまで、自分自身を戒めているものである。

 

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コースの学びが進み、理解が深まってきた人が、

 

コース兄弟同士で、または、コース教師と生徒との間で、

 

奇跡講座について話しているときによく起こるのが、

 

相手が述べているコースの内容や考え方について

 

〝解かっている自分〟が〝まだ解かってないあなた〟

 

を見て、そうじゃないよ、と、正したくなる衝動である。

 

 

例えば、ある人が、私はこんな赦しを実践しています、

 

とシェアしたとして、それに対して、そうじゃないよ、と、

 

つい、相手の赦し方を訂正したくなってしまうのだ。

 

 

そんなとき、心の中にふっと湧き起こる、

 

自分の教えていることが正しい、という衝動を見る。

 

自分が教えることで、相手の学びも進む、と思いながら、

 

実は、自分が教えることで自分が分かりたい、

 

と考えている、という、その傲慢さを認めるのだ。

 

 

教える、というと、どうしても分離した個人の自分は、

 

生徒を取って、先生のように教えたくなってしまうのだが、

 

僕の勝手な見解を述べるなら、

 

真の教師はただ、体験をさらけ出して見せるのみで、

 

ただこうである、と語るほかは何もしない。

 

多分それが、教える事と学ぶ事は同じ、の意味なのだ。

 

 

コースが自学自習であるのには、やはり理由がある。

 

どういうことかと言うと、

 

何かをやろうとするとき、または、学ぼうとするとき、

 

僕たちはどうしても〝集おう〟としてしまう。

 

集うと、その中で中心的なリーダーが生まれる。

 

やがて、そのリーダーは、無意識のうちに(←ここ強調)

 

自分の理解を深めるために教えるようになってしまい、

 

その集いは、リーダーのための学びの場となる。

 

 

そして、

 

少し学びの進んだ人が、後進に教える際に起こるのが、

 

自分の学びの進度によって、言うことが変わることだ。

 

 

僕の中で、コース教師あるあるなのが、

 

生徒がAと言った事に対して、教師がそれはBですよ、

 

と訂正したとして、それから数か月が経ったころ、

 

「最近、学びが進んでやっぱりAなんですよね。」

 

と言ったりすることだ。

 

じゃあ、最初にAと言った生徒さんはなんだったんだ、

 

教師より進んでたんじゃん、ということになる。

 

 

なので僕も、他のコース兄弟と話すとき、

 

これは何々なんですよ、とか、それは違いますよ、とか、

 

これはこうこうこうなんですよ、というような、

 

語尾が〝よ!〟で終わるアドバイス的口調には、

 

細心の注意を払うよう気をつけている。

 

 

とは言っても、僕も、つい最近まではバリバリやってた。

 

上辺だけの愛や調和を装おうとする相手に対し、

 

ぐりぐり相手の自我をほじくり出していた。

 

「同じコースをやってんだったら、本音を言えよ。

 

 心の中のドロドロとちゃんと向き合えないんだったら、

 

 コースやってます、なんて言うなよ!」

 

てな感じだった。

 

実際は、自分の中のドロドロを相手を通じて観ようとして、

 

そのドロドロをなかなか出さない相手にイラついていた、

 

だけの話である。

 

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〝これこそが正当な奇跡講座だ〟または、

 

〝あの先生の言っていることが正しい〟

 

というのであれば、

 

自分がそう信じていればいいだけの話であって、

 

誰かに広めようとする必要はないのだ。

 

〝あなた〟が教えてあげようとしなくても、

 

必要な人はちゃんと導かれるし、

 

それが兄弟を信頼する、ということでもある。

 

 

そういう意味で、僕たちは自我の思考体系を、

 

奇跡講座の集いの中でもやっている、と思うのだ。

 

それは特に巧妙で、たちが悪い。

 

もちろん、本人はちっともこのことに気づいていない。

 

集えば分離する。

 

それは奇跡講座の集いであっても例外ではない。 

 

 

そういう意味で、加藤三代子女史のフォーラムなどは、

 

集うことなく、自学自習でありながらも、

 

きちんと学べる場を提供しようとしている点で、

 

画期的だなあ、と思ったりする。

 

 

それから、

 

「別に他のやり方を否定しているのではありませんよ」

 

という免罪符のような言葉にも要注意である。

 

教師は、この言葉の裏で走っている〝想い〟を、

 

先ず正直に観ることが、決定的に重要である。

 

 

コースの中にも、さまざまな〝流派〟(笑)があるが、

 

結局、自分はこうです、と示すだけでいい、と思うのだ。

 

要するに、あるコース兄弟やその他のスピ仲間に対して

 

「それ違うよぉー!」という想いが出てきたとき、

 

〝違う〟のは自分だ、ということである。

 

 

自分の理論が正しくて正統だ、とする、

 

その微妙なコース的エゴを見つめ、聖霊へ運んでゆく。

 

 

兄弟が何を選択しようと、神聖な兄弟自身とつながる。

 

それだけでいい、と思う今日この頃である。

とっても〝コース〟な一日

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先週の水曜日、全社員が参加する会議があり、

 

僕も香港からスカイプで参加した。

 

まず、社長が来期に向けての指針を述べた。

 

 

「わたしは、これからは一切怒りません。

 

 もし、わたしがイライラしていたり、怒っていたら、

 

 社長、怒ってますよ、とわたしに注意してください。」

 

 

「愛のある優しい会社というのは、外面だけではなく、

 

 身内にも愛と優しさがなければならないと気づきました。

 

 人には優しく、仕事には厳しく、と言う人がいますが、

 

 仕事で怒られて愛でいられる人などいません。

 

 だからわたしは怒らないと決めました。」

 

と言うのである。

 

 

す、すげー!

 

一瞬、アセンションでも起こったのか、と思った。(笑)

 

社長、60歳、山梨生まれの山梨育ち、

 

元々優しい人ではあるのだが、少し短気な所があった。

 

でも、去年の10月、新会社に業務移管をして以降、

 

会社の雰囲気は格段に良くなった。

 

普通の組織ではごく当たり前に行われている、

 

〝防衛の為の攻撃〟をする人がいなくなったし、

 

別に、そうしろ、と指示が出ているわけでもないのに、

 

上司と部下の間でも、互いに敬語で話すようになった。

 

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外界の世界には、

 

隠蔽された自分の心の中が投影されている。

 

隠蔽しているように見えても、実はすべてが眼前に、

 

むき出しとなってさらけ出されているのだ。

 

ある人が、我慢ならないことを自分にして見せたら、

 

その人は、自分の心の中そのものを代表しており、

 

誰かを批判したくなれば、その誰かこそが、

 

隠蔽している自分そのものの〝想い〟だということだ。

 

 

ここが、見えない自分の心の中の写し絵であるが故に、

 

相手が本当にやっているように見えることを通して、

 

自分の心の中を直視し、聖霊へ運ぶことで、

 

〝夢の中の兄弟〟ではなく、兄弟自身とつながるのだ。

 

そうやって、わたしはあなたとひとつであって、

 

分離していないひとつの心だ、ということを確認しあう。

 

その、和解された心の中に父が居る。

 

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というわけで、今日は土曜日、4連休の2日目である。

 

一歩も家から出ず、コース漬けの一日を送った。

 

加藤氏の聖霊のレッスンCの講義を再読したあと、

 

奇跡講座26章を詳細におさらいした。

 

それから、ワプニック氏の音声を聞きながら、

 

昼食(ヨーグルトとキウイと鶏の胸肉)を食べた。

 

午後は、ゲイリーの四冊目を読み、瞑想をしてから、

 

決断の主体へと戻るまでに障壁となっている感情を、

 

聖霊へ運ぶ〝超強力大放出ワーク〟をして過ごした。

 

 

いつもは仕事や日常生活を送る中での実践が主で、

 

理論の勉強や動画の視聴も、

 

乗り物の中とか、カフェとかでやることが多く、

 

こうやって自宅で、集中してコースと向き合える時間は、

 

僕にとってはとても貴重である。

 

だが、これは週に一、二度だからよいのであって、

 

これが毎日続くと、逆に今度は、

 

〝コース漬け〟という夢を使って隠蔽を図ろうとする。

 

 

どういうことかと言うと、

 

来る日も来る日も、コースの勉強だけに没入し、

 

コースの中だけで1日が終わるような生活を続けていると

 

本人は学びが進んでいるように思っていても、実の所、

 

無意識のうちに、投影を抑圧してしまっていたりする。

 

 

例えば、

 

普段はコースな一日の中で平安に過ごせているのに、

 

普通の社会で赦しを実践しているコース兄弟なら、

 

すぐ赦せるようなほんの些細なことに遭遇しただけで、

 

ものすごく動揺してしまったりするのだ。

 

兄弟から次々にもたらされるレッスンを、

 

巧妙に(←ここ重要)避けるようになってしまうのである。

 

もちろん、没頭している本人はそのことに気づいておらず

 

そこを指摘されれば、多分、怒りだすだろう。

 

 

僕たちがコースで真理を学んでいるのと同様に、

 

自我もそれに対する対処法を学んでおり、

 

学びが進むほど、自我の巧妙さも増す。

 

そういう意味で、僕自身の心の中に顕われる、

 

〝やる気満々〟な兄弟たちには本当に感謝しかなく、

 

愛であり、頼もしい存在でもある。

 

 

夜は、夜気が心地よかったので、ベランダに出て、

 

ラムロックを飲みながら、小説を書いた。

 

ちは三階で、森がすぐそこまで迫っているので、

 

窓を開けていると、蚊、蜂、アブ、蝶々、蛾、

 

ムカデ、トカゲ、カナブン、カブトムシ、ホタル、

 

など、ありとあらゆる虫たちが飛び込んでくる。

 

しかし電気の虫よけはつけなかった。

 

虫によって、何らかの危害を加えられる、

 

という概念自体がなくなっていた。

 

ただ、部屋に虫や蜂が迷い込んできたときは、

 

出られなくなると可哀そうなので、

 

全力で追いかけ、逃がしてやる。

 

 

 

聖霊兄貴は、

 

虫を恐れたり憎んだりするはずはない。