香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

〝やっちゃた〟から〝間違っちゃった〟へ

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オセロの黒を白へとひっくり返してゆくように、

 

あらゆる罪悪感を、単なる〝間違い〟へと

 

置き換えてゆくことこそが〝贖う(あがなう)〟ということ、

 

すなわち、訂正することだと理解した今日この頃である。

 

 

僕の日常で言えば、

 

フィリピン工場の財務諸表がなかなか出てこないのは、

 

フィリピンの経理スタッフがいい加減だからだ、とか、

 

元コンババ部長は、あまりに真面目で細かすぎる、とか、

 

元NGT48の まほほん は可哀想すぎる、とか、

 

それらは全て〝罪〟ではなく、ただの間違いだった、と、

 

確認してゆくこと、そして、

 

次々に現れては消える〝罪のように見えるもの〟を、

 

ただの〝間違い〟に置き換えてゆくことによって、

 

聖霊J兄貴は、それらを訂正してゆくことができる。

 

 

要するに、

 

「わたしのせいで大切な人を傷つけてしまった。」 

 

と、

 

「間違って反対方向の地下鉄に乗っちゃった、てへっ。」

 

は、

 

同じということになる。

 

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というわけで、月初の今日は、5月の締めで忙しかった。

 

香港支社の5月の売上と仕入を確定させた上で、

 

現在いくら香港支社にお金があるかを算出し、

 

6月末までの資金繰り表を作成する。

 

たった3人しか社員のいない香港支社だが、

 

6月は出張も多く、僕の引っ越し費用もかさむので、

 

家計を預かる身としてはなかなかやりくりが大変なのだ。

 

 

しかし、何やかや言っても、やっぱり働くって楽しい。

 

いま、自分に3億円あったとしても、やっぱり働くかも…。

 

それに、僕の場合、

 

自営やフリーランスより、会社員の方が平安でいられる。

 

今のご時世、考え方によっては、

 

自営より、会社員の方が恵まれているかもしれない。

 

休みもたっぷりもらえるし、怒鳴る上司もいない。

 

それに、病気で休もうが、ちょっと手を抜こうが、

 

お給料は毎月キチンと振り込まれる。

 

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おっと、話が逸れてしまったようだ。

 

だから、そういう日常で感じる葛藤や動揺を、

 

兄貴と共に見つめ、光へ運ぶことで、

 

これは罪ではなく間違いだったと気づいてゆく。

 

間違いは訂正すればよいだけの話である。

 

そうやって、兄貴によって訂正されることで、

 

夢の出来事も一緒に削除されてゆく。

 

 と、そんなこんなで、

 

今週金曜は端午の節句で香港は祝日なので、

 

久々にお籠り三連休を決め込むつもりである。

スマホの住人

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今日は、正午から一時間、セントラルのジムで、

 

トレーナーの指導で筋トレをした後、

 

せっかくセントラルまで出てきたのだからと、

 

ミッドレベルのソーホー地区をぶらぶらすることにした。

 

長いセントラルエスカレーターをプリンステラスまで上る。

 

以前も書いたかもしれないが、この地区は、

 

香港の医者や弁護士、外資系の偉いさん、香港スター、

 

などが住むセレブな地区で、高級なカフェやバーも多い。

 

そう言えば、サーズの大流行で家賃が急落していた

 

わずかな間だけ、僕もこの地区に住んでいた。

 

だがそれも今は昔、もう二度と住めないだろう。

 

 

い、いんやっ!

 

引き寄せの法則で何とかなるはず。

 

この無力感を聖霊兄貴に明け渡しさえすれば、きっと…。

 

(↑ おい、血迷ったかっ!)

 

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というわけで、

 

いま、シェリー街のオープンカフェでこれを書いている。

 

休日ということもあり、通りはすごい人出だ。

 

バーで独りビールを飲んでいる西洋人を観察していると、

 

彼らはスマホを一切見ていないことに気づいた。

 

別段何をするでもなく、ゆったりビールを飲みながら、

 

通りを行きかう人々の様子をただ眺めている。

 

一方、アジアの人達は、席に着くなりスマホを取り出す。

 

 

そんなことを考えているうち、ひょっとして、

 

僕たちは今、スマホの中にいるのではないか、と思った。

 

 

夢の中に生きている自分と、決断の主体である自分を、

 

もっと世俗的な例に当てはめるなら、

 

スマホを見ている自分と、スマホの中の自分、に、

 

置き換えて説明することができるかもしれない。

 

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最初、良い子の僕らは、SNSでのやり取りや、

 

様々な動画サイト、刺激的なオンラインゲームの数々に、

 

ワクワクしながら没頭していた。

 

しかし、寝食も忘れ、スマホの画面を覗き込んでいるうち

 

現実よりも、スマホの中の世界の方をリアルに感じ始め、

 

やがて、スマホの中の主人公が自分だと思い始める。

 

そうこうするうち、スマホを操作している自分と、

 

スマホの中の自分がどんどん解離してゆき、

 

それがある臨界点に達した時、すとん、と、

 

完全にスマホの世界に意識が落ち込んでしまう。

 

 

そうやって、

 

スマホを操作している側の自分をすっかり忘れ、

 

分離したスマホの中の自分だけが独り歩きを始める。

 

 

もちろん、スマホの中の登場人物である自分は、

 

0と1のプログラムに過ぎないので、実在ではない。

 

故に自分がどこから来て、どこへ行くのかもわからないし

 

そんなことなど考えないよう、事前に設定されている。

 

 

一方、スマホを見ている方の自分は、

 

解離させた意識をスマホの世界に完全没入させたまま、

 

半眠状態でまどろんでいる。

 

 

ご飯の時間よ、という母親の声も聞こえないし、

 

いい加減スマホをやめろ、という父親の呼びかけも、

 

眠りを邪魔するうるさい雑音にしか聞こえない。

 

 

やがて、どんな呼びかけにも反応しない息子に、

 

業を煮やした父親は、別のアプローチを取ることにした。

 

スマホの画面に、天国帰還アプリを登場させたのだ。

 

そして、このアプリに飛びついた一握りの兄弟たちには、

 

スマホからの脱出ゲームが起動し出した。

 

 

そこでは、Jの姿を借りた聖霊が、ここは実在ではなく、

 

ただ間違ってスマホに没入してしまっただけだと告げる。

 

僕達は、兄弟同士であーでもない、こーでもない、と、

 

いろいろやりながら、設定を手放す訓練を重ねてゆく。

 

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とまあ、

 

こんな感じのファンタジーを、ミッドレベルのカフェで、

 

ワインを飲みつつ書いていると、ある直感が舞い降りた。

 

僕たちは、奇跡講座を学び、赦しの実践をすることで、

 

父が待つ故郷へ永遠に帰還すると思っているが、実は、

 

決断の主体(個のレベルでは決断の主体の断片)が、

 

スマホの画面に現れた、天国帰還アプリを押したから、

 

スマホの中の僕達が赦しを始めることになったのだと…。

 

要するに、

 

先に決めたのは決断の主体(の断片)のほうなのだ。

 

そうやって〝砕けた一なる子の断片〟の意思によって、

 

肉体である幻想の僕たちは赦しを行なうこととなった。

 

 

そういうわけで、不覚にも、決断の主体の断片に、

 

禁断の幻想脱出アプリを押されてしまったそこのあなた、

 

諦めなさい。 

 

じたばたするのを止め、潔く腹をくくるのだ! 

 

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母菩薩

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↑ 今日のフィリピンの気温は42℃。

 

フィリピンへ行っていて、さっき戻ってきた。

 

6月は、

 

深圳→杭州→佛山→広州→東京→大阪→フィリピン

 

ときどき上海、沖縄、で、月末には引越し、とまるで、

 

売れっ子芸人のような超ハードスケジュールとなる。

 

10年前ならいろんな所へ行けてワクワクしてただろうが

 

老体に鞭打つ今は、もうただただ家でお籠りしていたい。

 

それでも、こんなハードスケジュールだからこそ、

 

今にいて、兄貴と共に一瞬一瞬を大切に直視していきたい。

 

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閑話休題。

 

子供を持たない僕が言うのもナンなのだが、

 

お母さんが我が子に対する〝無条件の愛〟は、

 

エゴの思考体系で観るか、聖霊の思考体系で観るかで、

 

まったく違ったものになる、と思う。

 

 

自分が腹を痛めて産んだ子供は、

 

誰よりも愛おしく、特別で重要な存在である。

 

これはもう、個体を維持する為に必要な〝本能〟であり、

 

この母性によって人類は存続してこれた、

 

と言っても過言ではない。

 

 

これを、自我の思考体系を通して観ると、

 

母性は、自分で獲得したものを所有する、という、

 

混沌の法則の最たるものだと言える。

 

 

例えば、かけがえのない大切な〝自分の〟子供が、

 

病気や、理不尽な理由で死亡したりすれば、

 

怒り、悲しみ、後悔など、絶望の淵でもがき苦しむが、

 

もしこれが、隣の家の子に起きたことなら、

 

この悲しい出来事に胸を痛めはするが、その一方で、

 

自分の子供でなくてよかったと安堵していたりもする。

 

たとえ、不幸に遭った母親を心から励まし、

 

何らかの力になろうとしていたとしても、

 

その心の奥を、ようくようく見てゆくと、

 

「もし、これが我が子に起きたことだったら…。」

 

という心理の裏返しで同情していることが分かる。

 

要するに、それだけ自分の子は特別だということなのだ。

 

 

子供を造る、という、この世界では何よりも尊く、

 

神聖で愛の行為とされるものが、本当は、

 

自我の世界を存続させる為の根本的信念となっている。

 

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↑ 半端ない炎天下で作業をする人たち。脱帽。
 

だが、これを聖霊の思考体系から観てみると、

 

母性は、我が子の為なら自分の命も惜しまない、

 

という無条件の愛からきている、と捉えられる。

 

そして、それは、

 

父(神)が僕たちに抱いている愛と同質のものだ。

 

 

どういうことかというと、

 

あるお母さんに二人の息子がいるとする。

 

一人は母親想いの、思いやりのあるよい子で、

 

家計を支えるため、一生懸命働いてくれる。

 

もう一人は、ニートで、毎日母親に金をせびり、

 

家庭内暴力を振るって暴れ回るようなドラ息子だ。

 

ある時、悪魔がやってきて、

 

どちらか一人を地獄へ連れて行くから選ぶように、

 

と母親に迫った。

 

だが母親は、即座に、

 

どちらも選べないので、自分が地獄へ行く、と答える。

 

 

このとき、母親の中で二人の息子は同等である。

 

二人の息子が品行方正であっても、殺人犯であっても、

 

母親の中では、最愛の我が子であり、無罪である。

 

きっと、神が僕たちを見ている眼差しも、

 

これと同じなのだ。

 

 

夢の世界では、どんなに罪深く見えている兄弟も、

 

神にとっては、等しく大好きな我が子たちなのだ。

 

なので、自分の命を引き換えにしてでも、

 

という、我が子に対する無条件の愛が、実は、

 

神が僕たち(神の子)に対して抱いている無条件の愛と、

 

同質のものであると自覚すること、また、

 

その愛を、あらゆる夢の場面、

 

自分の子供と他人の子供の間に適応させてゆくこと、

 

そうすることで、

 

自分の子供(だけ)に感じていた無条件の愛が、

 

全ての兄弟の中へと延長されてゆくことになる。

 

それが、神(父)が子に感じている愛の反映となる。

 

 

〝うちの子でなくてよかった。〟

 

〝長男のあの子に比べて次男は…。〟

 

〝なんで、こんな子に…。〟

 

という想いが出てきた時、心の中をじっと直視しながら、

 

自分は我が子を殺したいだろうか、と問うてみる。

 

子を持つお母さんはきっと、僕なんかよりずっと、

 

我が子に対する無条件の神の愛が理解できるはずである。

 

  

イエス、ブッタ、デイヴィッド、あやこさん、パパジ、等、

 

幻想を終えて行こうとする人はみんな子供を持たない、

 

という事実に、最後の生では子供を持たない方がよい、

 

と思いこんでいた自分がいたが、

 

いまでは、どっちでも同じだ、と感じている。

 

決断の主体に戻れば、みんなひとつの心なのだし、

 

どうせ、最後はみんな終わる。

 

 

ただ、

 

「決断の主体の位置から観れば、

 

 子供がいようが、いまいが、そんなの幻想なんだし、

 

 関係ないよ…。」

 

という視点から出発してはいけない、とは思っている。

 

僕たちは、そこへたどり着くまでに、

 

まだまだ、いろんな自我の思い込みを隠している。

 

そこをひとつひとつ見つめ、聴きとめてゆくことが、

 

何よりも赦しの優先事項となる。

 

 

というわけで、明日は土曜日。

 

セントラルのジムでトレーナーと筋トレをした後、

 

ミッドレベルのカフェで白ワインを飲みながら、

 

久々に創作をしようと思っている。

 

怒涛の6月に向け、鋭気を養うのだ!