香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

小細工を一蹴せよ!

f:id:shusaku1:20190724222340j:plain

 

暑い。

 

それでも、これまで1時間半かかっていた通勤時間が、

 

引っ越してからは、40分に短縮されたので助かる。

 

アパートのすぐ下のバス停から直通バスが出ており、

 

全く汗をかかずに会社までたどり着ける。

 

特に、香港の郊外を通るため、

 

ビル群が密集する香港島とはまた違った風情があり、

 

毎日小旅行をしているようで、楽しい。

 

f:id:shusaku1:20190724222331j:plain

 

そんなわけで、一見、精緻で壮大に見えるこの世界が、

 

実は、吉本新喜劇の舞台装置並みのショぼさだった、

 

という自我の小細工に、

 

完全に気づいてしまった僕である。

 

 

向こうから息を呑むような美人の女性が歩いてくるのも、

 

木々がざわめき、顔に心地よい風が吹きつけてくるのも、

 

寸でのところで電車に乗り遅れてしまったのも、

 

お金がどんどん無くなっていくのも、

 

あの人から無視をされつづけているのも、全て、全て、

 

僕たちに解釈させるための〝トリック〟に過ぎない。

 

僕たちに解釈をさせることで、

 

神を、全く別のものとして見せようという魂胆だ。

 

美人のお姉さんも、風も、電車も、お金も、あの人も、

 

本当は、存在すらしないイリュージョンでしかない。

 

 

なので、このマトリックスのVR世界を眺めながら、

 

「怒りを誘発するようなあのやり取りもトリックかあ~。」

 

「花の周りを舞うこのミツバチも幻影かあ~。」

 

「会社で起こるこれも、全部インチキかあ~。」

 

と、自我のトリックを見破ることが、

 

自我を見つめるということとなる。

 

f:id:shusaku1:20190724222335j:plain

⇑ 右端に映る裸のおじさんがシブい。 

 

ただそれは、首から上(頭/脳/思考)でやるのではない。

 

また、テクニカル的なワークのようにやるのでもない。

 

この世界が自我のトリックだと知っているだけでは、

 

神がすでに〝ここ〟にいることに気づけない。

 

 

〝ハート〟から自我のやっていることを観ること。

 

前回の記事で書いた「それは神だ!」のところで観る。

 

そうすれば、自分がこれまで、

 

どれだけ卑劣な扱いを受けてきたかに気づくことができ、

 

もう金輪際、このような茶番劇に関わるまいと、

 

凛とした自覚を以って自我を一蹴することができる。

 

と同時に、周囲の兄弟たちが、

 

いかに惨めな状況に陥っているかも見えてくる。

 

本当はそのような存在ではないのに…。

 

神から完全に祝福されている存在なのに…。

 

f:id:shusaku1:20190724222346j:plain

 

というわけで、今は午前零時、これから、空港へ向かう。

 

深夜2時の便で大阪へ行くのだ。

 

深夜便に乗るのは何年振りだろう。

 

朝6時半に大阪に着くので、一日得した気分になる。

 

が、もう年齢が年齢なだけに、着いてからがきつい。

 

今回は、大阪の実家へは戻らず、ホテルに宿泊する。

 

8月も、大阪、上海、フィリピン、フランスのリヨン、と、

 

海外出張が続く。

 

今日コンババ部長が杭州へ同行してくれと言ってきたが

 

さすがに拒否った。

 

 

ああ、これもトリックかっ!

 

くぅーっ!

解釈のその先へ…

f:id:shusaku1:20190724222322j:plain

⇑ サクランボをつまみつつ、よく冷えた白ワインを飲む。

    これが今のトレンドらしい。(⇚ ウソ)

 

僕たちは、日々、見えている世界に様々な解釈を与え、

 

常にハートを〝びゅんびゅん〟させまくっているわけだが

 

それはつまり、純粋なハート(神の歓びの想念)の上に、

 

自分の解釈をのっけて世界を見ているがために、

 

全てが〝びゅんびゅん〟に感じられてしまうのである。

 

 

毎回の赦しの場面において、そのことを思い出し、

 

自分の解釈を取り下げようとする意志を持てたとき、

 

僕たちは、神を神として感じることになる。

 

 

どういうことかというと、例えば、

 

Aさんは、貸したお金を返してくれないので腹が立つ、

 

というとき、本当は神に腹を立てているのである。

 

また、Bさんは、私をいつも馬鹿にするので嫌いだ、

 

というとき、本当に嫌っているのは神なのである。

 

 

なので、無数の解釈を別々の解釈で観るのではなく、

 

全てが〝神〟という、ひとつの同じ解釈で見て、

 

それらの歪んだ解釈を一度にぱっと取り下げたとき、

 

〝お父さん〟がわっとやってくる。

 

f:id:shusaku1:20190708003750j:plain

⇑  酸っぱいもの屋。あらゆる酸っぱいものを売る。 

 

解釈に気づくことは、神に気づくことであり、

 

そうやって神を発見すると、

 

コップや、道行く人や、家族の中に神が反映され、

 

何を見ても等しく 「神だぁーっ!」 となる。

 

そして、その神の想いを感じる場所がハートである。

 

f:id:shusaku1:20190714184910j:plain

  

お金が無い、と不安でびゅんびゅんしていようと、

 

かけがえのない何かを失くして絶望していようと、

 

また、何かに心が傷ついて悲しんでいようと、

 

それらの解釈の奥には、神がある。

 

だから僕たちは、これまで神だけを感じてきたのであり、

 

常に父の中で、父と一緒にいたのだ。

 

 

個の解釈取り下げた先にいる神に気づいていくこと。

 

それが、僕の赦しであり、癒しである。

 

 

そういうわけで、まだ一応、

 

神の中で、会社へ行き、仕事をしているボクであるが、

 

誰を見ても、誰と相(あい)対しても、神がいる。

 

神に見えるのではない。全体が神なのだ。

 

ていうか、神しかいない。

 

 

朝起きたら…

f:id:shusaku1:20190714184905j:plain

 

〝 ♫ 朝起きたら~、男の態度が変わってたあ~ ♪

 

 お暇な時があったらまた来てくださいと言ったら

 

 多分わたしは一生忙しいでしょう、と言われた♬〟

 

 

昔『朝起きたら』という曲がヒットしていたが、

 

今の僕も、朝起きたら、自分の中に神がいた、

 

という、その衝撃と、感動と、安堵の中、

 

ハートが愛と悦びと感謝で〝ヒンヒン〟して、

 

定期的に、わっ、と、涙が込み上げてくる毎日である。

 

(もう〝キュンキュン〟どころではない。ヒンヒンである。)

 

 

父は、ずっと僕と一緒にいた。

 

〝解釈〟だけが唯一にして最大の問題だったのだ、

 

と、心底理解して振り向いたら、そこに父が立っていた。

 

 

神がいるのなら、私が抱えるこの問題も解決されるのか

 

という〝疑いの解釈〟だけが問題だった、と気づくこと、

 

自分はいつも、神と一緒にいたので、自分はいつも

 

〝この夢の中〟にはいなかった、と知ること、

 

それが、神に気づくためには決定的に重要だと思う。

 

 

僕の場合、みぞおちの奥の辺りにハートを感じていて、

 

そこから神(父)に触れていく感じ。

 

ただ、ハート全開、神の想念100%でいってしまうと、

 

日常でも〝イッちゃった人〟になってしまうので、

 

普段は、天城越え寸止め状態で過ごしている。

 

f:id:shusaku1:20190708003655j:plain

 

 

常に神と一緒であることを感じていて変わったことは、

 

何と言っても、世界に対する見え方だ。

 

自分と兄弟は全く同じものだ、と100%知っているので、

 

〝神だ〟というひとつの解釈でしか兄弟を観れない。

 

これはもう、本当にそういう風にしか見れない。

 

自分に接するように兄弟と接していると、

 

俗な言い方をすれば、兄弟にとても優しくなった(笑)。

 

 

たとえ、不快感や、動揺や、怒り、を感じたとしても、

 

これっておかしいぞ、と気づいて立ち止まり、

 

はちみつを舐めた時に感じる形容できない不変の理解、

 

(ハートの体験)の中へ入ってゆくと、

 

やっぱり最後は〝神だ〟となる。

 

要するに、もう、神しかいないのだ!

 

f:id:shusaku1:20190708003705j:plain

 

そういうわけで、

 

新しいアパートへ越してから、生活を楽しんでいる。

 

部屋も大好きだし、職場までの道のりも楽しい。

 

何より、見えるもの、聞こえるもの全てに神を観る。

 

 

しかし、これもまた、うまく伝えられないのだが、

 

見えるもの、聞こえるものが神なのではない。

 

なんていうか、神が反映されたものを見ている。

 

神も自分もこの夢の世界にはいないからこそ、

 

歓びそのものなのだ。