香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ハートひゅんひゅん

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僕は日本本社採用の香港駐在員なのだが、

 

所得税は香港で払っている。

 

香港の所得税は給与からの自動天引きではなく、

 

一年に一度、自分で所得申告書を税務署へ送付する。

 

企業が社員の所得を先に申告しているのと、税務署は、

 

個人の銀行口座の自由に閲覧する権限があるため、

 

ウソの申告をしてもすぐにバレてしまう。

 

それで、今年は、税金納付書がなかなか来ないなあ、

 

と思っていたら、今日税務署から小切手が送られてきた。

 

なんと、去年分と今年分の所得税を相殺したところ、

 

僕が税金を払い過ぎていたことがわかったのだ。

 

還付額は、日本円にしてだいたい5千円くらい。

 

このお金で、

 

いつもより少し高級なワインでも買うことにする。

 

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本当は神だけだった、自分も神と同じ存在であり、

 

よって、

 

夢見ている自分も含め、世界は本当に無だった、と、

 

〝神〟が反映された世界だけが見えてくるようになると、

 

仕事中、エクセルで経理の表計算をしているときでさえ、

 

訳もなく愛おしくてたまらない、歓びの感覚に包まれる。

 

それは不変で、眼前で何が起こっているように見えても、

 

常に、そこには〝解かっている〟が流れ続けている。

 

 

椅子と思っていたものが、

 

同僚だと認識していたものが、

 

恐怖だと解釈していたものが、

 

ハートへ下りた瞬間、

 

全ては神そのものだったという理解に変換される。

 

 

僕の場合、楽しそうにはしゃぐ子供を見かけた時や、

 

熟した桃の甘い果肉を味わっている時や、

 

好きな歌を聴きながら心の中で一緒に歌っている時や、

 

家でゆったりとくつろいでいる時に湧き上がってくる、

 

小さな愛と歓びの感覚が呼び水となり、そこから、

 

大きなハートのエクスタシーが、わわわっと上がってくる。

 

そして、そこからは何を見ても〝神だ!〟となる。

 

 

僕は男なので、女性に比べて感受性が鈍いからか、

 

神の〝巨大な愛されている感〟が爆上して来ても、

 

どこかに、深い平安と安心感があり、

 

比較的、冷静さを保っていられる。

 

しかし、同じように神を感じている、

 

幾人かの女性コース兄弟たちに訊いてみると、

 

ずっと涙が止まらなかったり、眠れなかったり、

 

その場にへたり込んでしまったりするそうだ。

 

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まあ、そんなこんなで、8月である。

 

今週後半は、会議出席のため、また大阪へ出張する。

 

今回は土日を実家で過ごすため、少しのんびりできる。

 

あ、そうだ。

 

事前にアマゾンで色々と買い物をしておかなくては…。

 

とりあえず、今欲しいのは、

 

ブルーライト防止の老眼鏡と、ソファ用ダニ取りシートだ。

 

 

それから、

 

会社負担で日本へ帰国できる、一時帰国休暇の権利が、

 

9月末までで、あと一回残っている。

 

何とかスケジュールを調整して、休暇をゲットしたい。

 

代休も三日残っていて、消化するよう総務に言われている。

 

 

と、そういった〝考え事〟さえもが、

 

神の圧倒的な〝愛されてる感〟のなかで、

 

ただ歓んでいるだけ、の想念に変換されてゆく。

 

解釈する自分もいなかった、という安心感。

 

おやすみなさい。

 

⇓ 税金についての赦しの記事はこちら ⇓

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

存在の耐えられない世界

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今日は台風の影響で、会社が午後から休みになった。

 

会社を出る頃には、雨と風がかなり強くなっていて、

 

バスの停留所にも、長蛇の列ができていた。

 

風雨の中、20分ほど待って、ようやくバスに乗る。

 

湿った革靴が気持ち悪い。スラックスもびしょびしょだ。

 

バスのエアコンも冷たいし、おまけに道路は大渋滞!

 

 

そんな風に、解釈している途中で、

 

はっ、と、一瞬立ち止まり、

 

無を考え出していたことに気づいた後、

 

そこから、神を思い出してゆく。

 

 

不快感は即座にハートのエクスタシーへと変換され、

 

ああ、神だった、と、神でハートがひゅんひゅんしてくる。

 

まあ、今の僕は、一事が万事、こんな感じである。

 

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片時も離れることなく、常に一緒にいる父に気づくには、

 

〝解釈〟が大きなキーワードとなってくる。

 

 

解釈を認識する、とは、スピでよく言われる、

 

解釈をしている自分に気づく、とか、解釈を止める、

 

また、一つ一つの解釈を、赦して聖霊に明け渡す、

 

というようなことでは、ない。

 

 

無は存在しないが故に、解釈自体も存在せず、よって、

 

何かを考えること自体、何の意味も為さない。

 

存在しないもの、無いもののことは考える必要もない、

 

それが、解釈を取り下げる、の本当の意味だと言える。

 

 

ハートから見れば、無を解釈するなどあり得ないし、

 

逆に言えば、解釈を止める、と言った時点で、すでに、

 

無いものを有ることにしてしまっている。

 

 

解釈とは、

 

ホワイトボードの上に描かれたリンゴのようなものだ、

 

と、ハレ師匠は言っていた。

 

リンゴの絵を指してリンゴ、リンゴと言っているが、

 

実際、僕たちが指していたのはホワイトボードであり、

 

本当は〝神〟全体を指してリンゴリンゴと言っていた、

 

ということである。

 

 

要するに、僕たちは、神の上でしか何も描けないのだ。

 

リンゴではなく、ホワイトボードのほうに気づくこと、

 

ずっと真っ白なまま、そこに存在していた神を観ること、

 

それが、ある意味、思考の逆転となる。

 

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そんなわけで、

 

正午に会社を出て、家に着いたのが、1時半だった。

 

即行、濡れた衣服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びた。

 

それから〝直撃グッディ!〟を見ながら、

 

買ってきた〝豚肉と桃の甘酢あんかけ弁当〟を食べた。

 

部屋でいろいろやろうと思っていたが、結局、爆睡した。

 

眠りの中で、奇妙な夢をたくさん見た。

 

寝室のベッドの隣に、洋式の便器があって、

 

大家さんに広東語で文句を言っている夢。

 

でも、夢の中の自分は全部状況を理解していて、

 

辻褄は合っている。

 

夢の中の自分に身体はなく、

 

どこか別の位置から映像を覗きこんでいる感じ。

 

存在しない無を覗き込んでいる感じ…。

 

 

全身が全霊

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大阪からさっき戻ってきた。

 

機内で一泊したので、2泊4日であった。

 

疲れてヘロヘロになるかな、と思っていたが、

 

そうでもなかった。

 

むしろ、ハートがざわつき、あまり眠れなかった。

 

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今回の旅では、

 

〝自分も含めて神だった〟という大きな理解に至った。

 

正確に言えば、自分は神に創造された神の子であり、

 

故に、神と全く同じ考えを共有している、という意味で、

 

神そのものだった、という体験が起こったのだ。

 

神の心、とか、神の歓び、とか、神の想い、とかではなく、

 

〝神〟そのもので存在している。

 

 

ただ、誤解を避けるために述べるならば、それは、

 

自分が神になる、神に取って代わるという意味ではなく、

 

要するに、神以外のものなど、はなから無かった、

 

ということに気づいてしまったのだ。

 

 

見るモノすべてが神で、会う人全てが神なのなら、

 

自分も神そのものの存在のはずである。

 

そうなるともう、全てが同じなのだから、

 

一つ一つを神と観る必要がなく、全一で神となる。

 

 

神は、

 

全肯定、さらけ出して恥じない、ただ歓んで愛している。

 

歓びの中で愛を知り、相手が歓ぶから自分は嬉しい。

 

自分の存在もそれと全く同じ、まさに全身全霊である。

 

 

赦しを実践している僕たちコース兄弟は、

 

神を直視しない代わりに、日々、

 

あると思い込んでいる罪悪感を直視している。

 

しかし,

 

それは神を観ないための言い訳であり、

 

その言い訳自体が無かった、

 

と気づくために行なう〝直視〟であるべきだ。

 

 

そして、僕たちの〝全身〟が〝全霊〟であった、

 

と、心底解かったとき、

 

神の愛が、兄弟たちへ延長されてゆくのだ。

 

教える必要もなければ、言葉で語る必要もない。

 

ただ、そこで歓んでいるだけで、それは起こってゆく。

 

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話は変わって、僕の会社は本社が東京なので、

 

当然、社員さんはみんな標準語で会話をする。

 

僕も、彼らと話す時は自然と標準語になる。

 

でも、今回、大阪にいる間、ずっと大阪弁で会話していて

 

とても自然体で、リラックスして自分を表現できた。

 

 

そうだ、これからは、いつでもどこでも大阪弁で行こう。

 

僕の大阪弁は、どちらかと言えば京都寄りのため、

 

「~してはりますねん。」とか「~してはんねやんかあ。」

 

といった、はんなり言葉が多い。

 

というわけで、今後は香港で、

 

〝はんなり〟と神を延長していきますどすえ。