香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神のむき出し

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⇑ スマホの使い方について、あーだこーだと云々する

   アパートの守衛のおじいさん二人。何かカワイイ。

 

外側の世界は、自分の心が投影された世界であり、

 

見えている世界が自分の心の中そのものだった、

 

という感覚になってくると、空間認識が反転を始める。

 

 

どういうことかというと、外側が内側で、内側が外側、

 

見ている側と見られている側が同じ、つまり、

 

見えている世界側が自分のように感じられてくる。

 

 

普通、心の中と言えば、どこか曖昧模糊としていて、

 

目には見えないもの、という感じがしているが、

 

何のことはない、心は外にむき出しにされており、

 

僕たちは外の世界を見ているようで、実は、

 

自分の心の中を覗いているのだ。

 

なので、

 

外の世界で起きている事や登場人物を赦すとき、

 

実際には、自分の心の中を赦しているのであり、

 

外の世界を楽しんだり、慈しみや優しさを以って暮らす、

 

ことで、自分の心の中が癒やされてゆく。

 

そうやって心の中が癒されてくると、

 

これまで闘いの象徴だった外の世界は消滅してゆき、

 

代わりに神の国が〝じわっ〟と眼前に顕われてくる。

 

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さっき、

 

「今僕は、自我の投影ではなく、

 

 神の反映(歓び)を受け容れます。」

 

と、なぜか突然、世界に向かって宣言したくなり、

 

気が付けば、居間の真ん中で、そう叫んでいた。

 

すると、部屋全体にハート満ち、歓びがあふれてきた。

 

 

ただ、ひとつ、誤解を避けるために述べておくならば、

 

神の反映として世界が見えているからと言って、

 

見えている物質世界自体が神ではない、ということだ。

 

いくら世界(心の中)に神が満ちているように見えても、

 

やっぱり、何も起こってはおらず、存在すらしていない。

 

 

神はずっと、ここに在った。

 

その想いは一度も変わったことがない。

 

それだけ。

 

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今週木曜日から2週間の一時帰国休暇に入るので、

 

今日、散髪に行って来た。

 

髪はいつも西灣河(サイワンホー)にあるヘアサロン、

 

REBEAUXの店長さんにやってもらっているのだが、

 

今回は、世界で大流行している〝ゼロフェードカット〟

 

に挑戦した。

 

これは、上から下に向かって、後頭部と側頭部の髪を、

 

だんだん地肌が露出するくらいにまで刈り上げるという、

 

スタイリストさんにとってかなり難易度の高いカットらしく、

 

自分の腕の見せ所だ、と、店長も乗り気だ。

 

 

1ミリ、0.6ミリ、0.1ミリ、という具合に、

 

いくつものバリカンを使い分けて刈り込んでゆく。

 

この髪型は、上部にまとまった髪がある人限定で、

 

しかも、

 

頭の形がある程度長細くないと、鳳啓介みたく、

 

ちゅんちゅくりんになってしまうのだという。

 

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よし、これで、一時帰国の準備は済んだ。

 

今週木曜日から台北で二泊したあと、沖縄へ移動する。

 

台北では、出版社の人に会う以外、

 

これと言ってやることもないので、

 

行きつけのバーへ行き、あとはのんびり、

 

台湾名物である夜市を楽しむつもり。

 

もし、台北の読者兄弟で時間の合う方がおられれば、

 

メールいただければ、お茶でもしましょう。

 

 

また、沖縄では、あの強烈〝法悦女子〟と合流し、

 

レンタカーを借りて思い切りベタな沖縄観光をする予定。

 

彼女は、神とハートを体感ベースで語り合える、

 

数少ない兄弟なので、本当に楽しみである。

 

 

なんなら、オレのゼロフェードカットで、

 

天城越えしてもOKだぜっ!(笑)

 

 

ヤクザな世界から足を洗う(退出江湖)

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今日は、上海で一緒だった弁護士さんと、

 

香港ゲートウェイのバーで打ち合わせをした。

 

当初、打ち合わせを終えると事務所へ戻る予定だったが

 

ワインを一杯頼むともう一杯がタダになる、と言われ、

 

昼間からグイグイやってしまった結果、直帰と相成った。

 

 

家へ帰る道すがら、通りですれ違うたくさんの人たち、

 

高層ビルの数々、喧騒、夕空、弁当屋に並ぶお弁当、

 

を見て、愛と感謝と歓びが、わわっ、と込み上げてくる。

 

日常を通して、心の中の神を観じているんだな、と思う。

 

自分はいま、神の声を聞いているのだ。

 

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ハートのエクスタシーを感じながら日常生活を送るとは、

 

ズバリ、大恋愛の真っ最中に感じるキュンキュンを、

 

10倍くらい強力にしたエクスタシーで24時間を過ごす、

 

という感じに似ている。

 

ただ、大恋愛には相手が存在するが、

 

ハートの悦(エクスタシー)は、誰がいてもいなくても、

 

何が起こっても起こらなくても、ずっと流れ続けている。

 

 

全く同じではないが、身近な例で説明すると、

 

夕焼けの美しさ、誰かの小さな親切、美味しい食物

 

大好きな人に対する愛おしさ、の背後に流れている、

 

言葉では表現できない不変の愛と歓びの感覚、または、

 

誰かを死ぬほど好きになり、もう、本当に好きで好きで、

 

この人さえいれば、他に何も要らない、となったときの、

 

その何とも御しがたい幸せな感覚、

 

それが、ハートの〝悦〟(神の理解)の感覚に近い。

 

 

本来、その感覚だけに留まっていればよい話なのだが、

 

恋愛で言えば、相思相愛となった二人がデートを重ね、

 

セックスをし、互いの生い立ち、性格、趣味、仕事、収入

 

などを知るにつれ、当初、相手に対して感じていた、

 

純粋な愛の感覚が歪みはじめる。

 

 

あの人の実家は裕福だとか、お義母さんが偏屈だとか、

 

スリッパを履かずに素足で家の中をうろうろするとか、

 

果ては、セックスがいまいち、といった解釈によって、

 

ハートが自我に取り込まれ、そこから争いが始まる。

 

それでも、ここさえ我慢すれば他は許容範囲、という、

 

むりくりな解釈によって関係は維持され、

 

すったもんだやりながらも、結婚、出産、育児、孫の顔、

 

に至ってフィニッシュとなる。

 

 

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って、何ですか、これ…?

 

相手の具体的な生い立ちや職業や性格を知ることが、

 

相手を理解することだ、と僕たちは信じて疑わないが、

 

実際、こんなの理解でも何でもない。

 

本当の理解は、当初感じていた、

 

「この人が好きで好きでたまらない。」のままを感じること

 

それが、神が自分を好きで好きでたまらない気持ちだと、

 

智っていることが真の理解となる。

 

 

というわけで、つい最近まで、この現実世界で、

 

幾多の〝浮世〟(笑)を流してきたボクであるが、

 

直接ハートそのものとして存在し始めると、

 

もう、ハートへ入ってゆくのに、

 

趣味や、ペットや、美味い食物や、恋愛や、家族、

 

といった〝呼び水〟を必要としなくなる。

 

なので、兄弟との肉体を使ってのハートの交流は、

 

もう卒業かな、と思っている。

 

 

君は僕だ!

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⇑ 一階が質屋、二階と三階はカフェになっている。

 

僕が心の中を赦すとき、

 

瞑想するように心の内側を見つめてゆくのではなく、

 

外界に投影されている映像に対して、

 

そこから受けるイメージを赦してゆく。

 

 

わざわざ目を閉じて、心の中を覗かなくても、

 

無意識の罪悪感は、全て外界へ投影されており、

 

少しも隠蔽などできていなかったことに気づけば、

 

世界まるごと自分の心の中だったと分かる。

 

まあ、せっかく、さらけ出してくれているので、

 

見えているものを直接赦していった方が、

 

僕の場合(←ここ重要)解りやすいし、手っ取り早い。

 

 

例えば、

 

いつも誰かの悪口を言っているあの同僚や、

 

ちょっとおっちょこちょいなこの友人、或いは、

 

バスを待つ列に横入りしてくるおばさん、など、

 

全て自分の心の一側面として捉えられるし、

 

自分の部屋にいるときには、部屋全体が、

 

自分の心の中の風景として見えている。

 

なので、同僚や、友人や、見知らぬおばさんを赦すのは

 

自分の心の中を赦し、癒すのと同じことになる。

 

 

または、

 

誰かの一言に怒りが込み上げてきたり、

 

突然、大事なものを失くしたり、誰かに裏切られたり、

 

失業したり、病気になったり、と、

 

もし、自分をひどく動揺させるような何かが起こったら、

 

それらの出来事は、さっきまで天国で幸福だったのに、

 

一瞬でその平安が奪われ、動揺している、というふうに、

 

心の中で起きていることの象徴として知覚される。

 

 

そんなときは、

 

一旦、思考のブレーカーを落として立ち止まり、

 

自分の心の中そのものである外界を注視しながら、

 

決してそれは起こっておらず、故に、

 

目の前で展開されている風景など、

 

存在すらしていなかったことを静かに認識してゆく。

 

 

そこから、

 

ああ、世界は本当に無かったんだ、という理解に至り、

 

あとは自動的にハートが上がってきて、

 

「ああ、ぜんぶ神だった!」となる。

 

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⇑ ジンと言えばタンカリー。
 

 

今日も、フィリピンのクラーク空港へ移動する際、

 

運転手があまりにノロノロ運転だったため、

 

空港に着いたのがフライトの40分前で、

 

その上、イミグレには長蛇の列ができていた。

 

各フィリピン人に要する出国審査の時間が長く、

 

列は一向に進まない。

 

そうして、フライト20分前にイミグレを抜けると、

 

今度は、セキュリティのエックス線検査エリアでも、

 

大きな荷物をいくつも抱えたフィリピン人の団体が、

 

何やらモタモタやっている。

 

しかし、そんな僕の焦りとは裏腹に、

 

みんな結構、ワイワイガヤガヤ楽しそうだ。

 

 

いま、見えているものから受けるこのイメージこそが、

 

自分の心の中に抱いている信念であり、

 

これが赦すべきものなのだ、と自覚する。

 

 

フライトに間に合うかな、という焦燥も、イライラも、

 

フィリピンの人たちも、空港も、果てはこの自分でさえ

 

本当にあるかのように見えているけれど、本当は、

 

寝ている時に見る夢と同様、存在すらしていなかった。

 

 

そうやってしばらくすると、

 

本来自分をイラつかせるはずのシチュエーションや、

 

こっちの空気も読まず、騒いでいるフィリピンの人達が、

 

何だかとてもハッピーなものの象徴のように見え始め、

 

それから、あれよあれよという間に、

 

彼らは神になってしまった。

 

 

とまあ、こんな感じで、

 

外界で起きている事柄を見て、それはホントに無かった、

 

と、認識されてゆくことが、今の僕の赦しとなっている。