香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛の照り返し

f:id:shusaku1:20191026042645j:plain

⇑ セブパシのパイロットとCAさん

      庶民的な感じが好き! 

 

 

裁きたい心に警戒したり、相手を裁かずに見るには先ず

 

〝自分〟の聖性を、相手の中に見いだす必要がある。

 

日本語や中国語を喋る肉体としての相手ではなく、

 

その奥にある不変の〝愛(聖性)〟を観ること、また、

 

相手の中にある、永遠で、不動で、常在な愛の部分が、

 

実は、自分のものであったと認識すること、

 

そうやって、相手の中に愛(神)を見つけることで、

 

相手の中へ押しやった愛が自分の元へと戻ってくる。

 

 

というわけで、毎度おなじみのフィリピンにいる。

 

工場で、9月の月次をまとめている間も、ともすれば、

 

裁こうとしている自分を認識しながら過ごした。

 

前回も書いたように、声を意識的に低くすることで、

 

意識状態になろうとする心を警戒するようにした。

 

 

最初はちょっときついけれど、大気圏を抜けてしまうと、

 

後は案外、ラクに聖霊の軌道に乗れる。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

こうして実践してみると、

 

夢の映像に対する反応から、妄想劇場に至るまで、

 

全て自分の心の中だけで起きており、

 

赦すのは自分の中だけだ、ということが理解できる。

 

 

例えば、

 

今年4月に社員の所得税申告をした筈なのに、

 

まだ納税通知が来ない、とエドワードに指摘され、

 

何か申告に問題があったのかと不安になる。

 

申告漏れがあれば、会社に罰金が課せられるので、

 

自分のミスで大変な事になる、という恐怖に襲われる。

 

本当は、ミスがあったとしても、税務署に問い合わせ

 

修正申告をすれば済むことなのだが、

 

心はとっさに、恐怖で自分を裁こうとしてしまう。

 

 

こんな時、彷徨い出ようとする心の中を常に見つめ、

 

〝裁きの妄想劇場〟が起これば、即座に取り下げる。

 

 

僕の場合、その時々で取り下げ方は違うのだが、

 

「神は愛であり、愛は決して脅かされない。」

 

「私は聖なる神の子だ。何かを裁くような存在ではない。」

 

と、宣言したり、また、あまりにひどい妄想だと、

 

「悪魔(自我)よ去れ!」と一喝する場合もある。

 

 

そうやって、認識して、取り下げて、入れ替えた後、

 

自分の中に神の愛が復帰するのを確認し終了となる。

 

f:id:shusaku1:20191026042640j:plain

 

とまあ、そんな感じで、昨日フィリピンから戻ってきた。

 

フィリピンも北の方は一年中猛暑、というわけでもなく、

 

朝夕は過ごし易くなっていた。

 

 

ショッピングモールにはジングルベルが流れ、

 

街はすでにクリスマスムードが漂っている。

 

しかし、クリスマスツリーの横にハロウィンのかぼちゃ

 

が吊るされていたりと、訳がわからない。

 

 

いつものセブパシで、午後10時に香港に着いた。

 

空港から市内に入ると、セントラル駅が閉鎖されていた。

 

最近、改札口の破壊行為が連発しており、その影響で、

 

閉鎖されているようだ。

 

仕方がないので、チンチン電車で家まで帰った。

 

この週末は一歩も家から出ず、お籠りをして過ごそう。

沈黙せよ!

f:id:shusaku1:20191014211724j:plain

 

〝何が何でも裁かない〟〝裁くべき事など存在しない〟

 

をモットーに、今、この瞬間瞬間を生きているボクである。

 

 

業務メールをチェックしている時、同僚と喋っている時、

 

電車の中で考え事をしている時、街を歩いている時など

 

裁きを放棄することだけに集中しながら過ごしていると、

 

常に意識が自分の内面に向けられているせいか、

 

心が無意識状態にならずに済む。

 

 

どういうことかというと、

 

僕達は一日のほとんどを無意識レベルで過ごしている。

 

友人や家族との何気ない会話や、ちょっとしたしぐさ、

 

または、笑顔や、嫌悪感、といった感情表現に至るまで、

 

生活の多くの行動や思考を無意識的に行なっている。

 

 

そういう、隙あらば無意識にさまよい出ようとする心を、

 

〝絶対に裁かない〟〝裁かれる存在などいない〟と、

 

常に監視し、警戒することによって、結果、

 

無意識的行為が、意識的行為に変換されることになる。

 

 

いまこの瞬間に在る、という概念も多分、

 

いまこの瞬間を〝意識〟する訓練をすることで、

 

自我に警戒する、ということなのだろう。

 

f:id:shusaku1:20191014211646j:plain

 

そうやって、裁きを取り下げて日々を送っていると、

 

やがて、裁くことがないのであれば、兄弟の中に、

 

差がなくても、なんら問題がないように思えてくる。

 

あの人と、この人が同じで何がいけないのか、

 

みたいな感覚になってくるのだ。

 

 

すると、今度は神の優しい平安が上がってくる。

 

 

ただ〝裁きを取り下げる〟を実践してみて分かったのは

 

普段の会話の中で、自分が言葉を発している時、

 

心は必ず無意識状態になっている、ということである。

 

皆さんもやっていただくと体感できると思うのだが、

 

裁く心を取り下げながら、相手の話を聞くことはできても、

 

心の中を直視しながら、ペラペラ喋るのは不可能だ。

 

要するに、自分が言葉を発しているとき、すなわち、

 

話している時は、赦しはできない、ということだ。

 

 

僕の場合、この実践を遂行するために、以前書いた、

 

声が高い、というコンプレックスを利用している。

 

会話する時〝意識的〟にわざと声を低くして話すことで、

 

自分が何をやっているかを自覚し、

 

無意識状態になるのを防ぐのだ。

 

声を低くして話す=裁く心を監視する=自我に警戒する

 

という図式である。

 

 

こうやって裁くのを止めると、本当に人生が変わる。

 

みんなが優しくなり、何気ない風景に神の愛を覚える。

 

 

会社にいて裁かない、って、これこそ奇跡だと思う。

 

なので、普通に会社で仕事をしているコース兄弟よ、

 

職場で神の平安を得ることは絶対に絶対に可能だ。

 

 

裁きの日

f:id:shusaku1:20191020021216j:plain

 

珠海の出張から戻って以来、

 

ずっと、Jの励ましを受け続けている。

 

それは、サポートでもなければ、導きでもない。

 

僕らと全く同じ目線に立つ、兄貴からの優しい眼差しだ。

 

 

そして、珠海での出来事で、

 

人から裁かれることがこんなに苦しいものなのか

 

と悟った僕は、もう、金輪際、絶対に、

 

兄弟のどんな些細な部分も裁くまい、と心に誓った。

 

 

僕らは絶えず裁いている。

 

性別、肌の色、宗教、国籍、職業、住む場所、婚姻、

 

しぐさ、声、趣味嗜好、服装、体つき、または、

 

あの人から言われた一言、理不尽な振る舞い、果ては、

 

自分と違う理論を学ぶ他のコース学習者を裁くことも…。

 

しかも、なぜか不思議なことに、

 

本人は裁いていることにさえ気づいておらず、

 

自分は裁く方ではなく、常に裁かれる側だと思っている。

 

 

よって、今回珠海で僕が経験したと思っている投影は、

 

自分が裁いた者から裁かれている事に気づかせてくれた。

 

 

また僕が、裁くことを心から放棄しようと思えたのは、

 

いつもここに在り、一度も離れたことのない父の愛を、

 

自分の中に感じられるようになっていたからだと言える。

 

 

誤解を避けるために述べるならば、

 

裁かないことで、父に繋がることができるのではない。

 

先に、自分の中に在る父の存在を思い出したからこそ、

 

兄弟を裁くことを止めよう、と本気で思えるのだ。

 

そういう意味で常に〝神が先手〟でなければならない。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

そんな感じで、裁かずに一瞬一瞬を過ごした。

 

だが、今日は午後から、月イチの部門長会議なのだ。

 

そう、僕が最も恐怖でびゅんびゅんする、アレだ。

 

 

毎瞬、毎瞬、赦した。

 

兄弟は裁かれるようなことなど何もしていないし、

 

それは僕も同じだ。

 

こんな事を言ったり、あんな事をしているからと言って、

 

それがどうしたというのだ。

 

全く裁くに値しない。

 

彼らは、そして、自分も、愛に値する。

 

 

まあ、そんな鼻息の荒い僕の心とは裏腹に、

 

会議はいつも通りに何事もなく終わり、

 

僕の〝エアびゅんびゅん〟も過ぎ去ったのであった。