香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

泣きの土曜日

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⇑ 昨日仕事から戻ってみると、お手伝いのチョイ姐が、

   紫の百合を活けておいてくれた。

   オランダのユリなのだという。

 

なぜか、ここ最近、

 

めっきり聖霊兄貴が登場しなくなったなと思ったら、

 

以前は別人格のように見えていた聖霊が、

 

いつしか、自分が聖霊だったことに気づき、

 

それ以降、聖霊を〝別物〟にしなくなった。

 

なんか、うまく説明できないのだが、

 

聖霊と同じように、裁きを取り下げ、世界を愛で見よう、

 

とするようになってからは特に聖霊との一体感が増した。

 

 

なので近頃は、赦しに於いても、

 

裁きを取り下げた後は、直接神に向かう。

 

また、自分が聖霊と同じ存在だった、

 

という自覚が持てて初めて、

 

直接神に触れてゆくことができるのだ、と気づいた。

 

 

その代わり、と言ってはナンであるが、

 

ここのところJ兄貴に問いかけることが多くなっている。

 

 

「こんなん出てきましたけど、どんなもんですかいな。」

 

「さっきのこの赦しは、もうここまでが精一杯ですねん。」

 

「この件に於いて、自分には何ができますやろ?」

 

 

まあ、ひとり呟き、のような感はあるが、それに対し、

 

Jは決して、それは違いますよ、とは言わない。

 

その時々で、最も適切なアドバイスを与えてくれる。

 

それは、テレビを通じてのこともあれば、

 

何気ない兄弟との会話を通じてのこともある。

 

または、強烈な〝閃き〟として伝えられることも…。

 

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まあ、そんな感じで、今日は土曜日、

 

 階下の通りでは、デモ隊に警察が放水する騒ぎがあり、

 

サイレンの音がけたたましく鳴り響いているが、

 

僕はといえば、昨日のうちに、

 

食料や、ワインや、お菓子などをわんさか買い込み、

 

お籠り三昧の週末を過ごしている。

 

 

不死という… ⇒ ワークブック ⇒ テキスト ⇒ 瞑想

 

と、午後いっぱい奇跡講座三昧の時間を過ごした。

 

テキストの『赦しの夢』の項を読んでいるうち、

 

兄弟達のことが、有り難くて、有り難くてたまらなくなり、

 

二度ほど号泣した。

 

その後、部屋中に神の気配を感じて、ううっ、となる。

 

トドメは、テレ朝のフィギュアスケートの試合を見ていて、

 

ザギトワ選手がくるくる回っているのを眺めているうちに、

 

ああ、神が舞っている、となり、またまた、泣けてきた。

 

 

な、なんじゃ、これはっ。

 

一体、自分はどうなってしまったのか? 壊れたのか?

 

これではまるで、法悦女子ならぬ法悦男子、やんけ!

 

⇓ 2014年、まだ神の理解が入る前の僕がそこにいた! ⇓

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珠海出張から戻って以降、

 

兄弟を通じて、裁いている自分に気づき、

 

それを取り下げ、そこから神にアクセスしたあと、

 

裁きの夢を、赦しの夢(神の理解)に置き換える、

 

という赦しを実践して数週間、マジで世界が変わった。

 

キャー、ヤッター、ステキーッ!とばかりに、

 

神がどわーっと食い気味に押し寄せてくる。

 

 

不変で永遠なる神の世界の方が実存で、

 

この世界は本当に無かったことが理解され始めると、

 

恐怖が癒され、平安が復活する。

 

僕の場合、まだまだ、行きつ戻りつ、波があるけれど、

 

こうして進んでいくのだな、と実感している。

 

 

神に気づく

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ああ。

 

しゅ、しゅ、首里城が…、も、も、もえてしまった…!

 

 

ニュースを見て、

 

首里城は、本土決戦を経験した沖縄の方たちの、

 

復興のシンボル、心の支えだった、と初めて知った。

 

先月沖縄を旅した際、また今度来た時に見ればいいや、

 

と、首里城には行かなかったことが悔やまれる。

 

 

その一方で、

 

この首里城全焼のニュースからは多くのことを学んだ。

 

 

僕は仕事柄、出張で多くの場所へ赴くが、

 

今後は、ただ行って、仕事して、帰ってくるだけではなく、

 

訪問先の土地の歴史も少しは勉強しよう、と決めた。

 

 

それから、次でいいや、もやめることにした。

 

言おうかな、行こうかな、やっとこうかな、と思ったら、

 

迷わず実行するようにしよう。(できる範囲でだけど…)

 

なぜなら、僕もいい年齢だし、

 

本当に次は無いかもしれないから…。

 

 

また、カタチの世界に永遠はない、ということも学んだ。

 

台風にしろ、地震にしろ、人生のハプニングにしろ、

 

どんなに頑張っても、最後は必ず取り上げられる。

 

なので僕はもう、カタチの世界は信じない。

 

永遠でなければ実在ではなく、よって世界はない。

 

また、永遠を求めるとは、神に気づくことであり、

 

神に気づくとは、普段、当り前に見えているもの、

 

聞こえているもの、感じているものが、実は神であった、

 

と認識することである。

 

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僕達は普段の生活の中で、

 

私のスマホ、去年買い変えたパナソニックのテレビ、

 

隣に住んでる田中さん一家、コンビニのシュークリーム、

 

と、あらゆるものを認識しながら暮らしている。

 

「ああ、これがわたしの、ス・マ・ホ、なんだぁーっ!」と

 

いちいち感動の叫びを上げつつ生きている訳ではない。

 

そして、神も、そこにスマホがあると気づいているのと

 

同じレベルで、ここに在る。

 

別の言い方をすれば、スマホがあると気づくと同時に、

 

神にも気づいている。

 

 

それはまた、〝わたし〟についても同じことが言える。。

 

年を取るにつれ、見かけや内面がどんなに変化しようと、

 

自分という人生をずっと見てきた不変の何かに気づくこと

 

それが、神に気づく、ということである。

 

 

よく考えてみると、生まれてから今日までに経験した、

 

様々な〝私〟の物語も、ひとたび認知症にでもなれば、

 

すべて無と化すような、実体のないものであり、

 

湧いては消えてゆく雨雲のようなものである。

 

 

なので、物語の中を生きている自分ではなく、

 

物語に気づいている不変で永遠の自分に目を向ける。

 

それが神を観る、聖霊を観る、ということとなる。

 

 

 

湧いては消える私の人生

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ようやく、家にいてもエアコンが必要なくなり、

 

ここへ来て、香港は秋本番を迎えている。

 

そして、僕の神へと向かう旅も佳境を迎え、

 

ますます、世界が〝薄く〟なって行っている。

 

 

こうして、裁きを取り下げる、を実践して以降、

 

またJに話しかけるようになった。

 

話しかけると言っても、これはどうしたらいいですか、

 

みたいな〝おしゃべり〟ではない。

 

 

例えば、

 

ワイドショーで神戸教師いじめ事件を視ていて、

 

加害教師が何で給料貰って謹慎なんだ、と批判するうち

 

そう言えば自分の中学校にもこんな女教師がいたな、と

 

その女教師の事を思い出しながら、心の中で、

 

様々な妄想復讐劇を展開し始めようとしたその瞬間、

 

あ、やってる、と気づいたら、

 

即座に沈黙し、取り下げ、最後は神と入れ替える。

 

この〝入れ替える〟際に、最近気に入っているのが、

 

「あなたは、神の愛に値する、

 

 無罪で不変の、聖なる神の子です。」

 

と、相手に向かって、心の中で力強く宣言することだ。

 

そうすることで、相手を神の存在に入れ替える。

 

 

そして、最後は、

 

こんな感じなんですけど…と、Jに問いかけてみる。

 

すると、Jから、ありがとう、という感謝の想いが、

 

じわっ、と伝わってきて、暖かい気持ちに包まれるのだ。

 

 

まあ、裁いている事柄を赦したからと言って、

 

特に現実が変わった、と実感するわけではないが、

 

多分、J兄貴は、僕の全ての前世、今世、未来世、

 

そして、ありとあらゆるパラレル次元にこの赦しを運び、

 

時空を取り消してくれているのだろう。

 

そう思えば、どんなに小さな心の中の裁きも、

 

捉えて入れ替えよう、という意欲が湧いてくる。

 

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また、こうやって、

 

心の中の活動が、日常の大部分を占めるようになると、

 

見えている映像や、出来事や、思考までもが、

 

何ていうか、まるで台風の雨雲レーダーのように、

 

淡々と湧き出しては消え、消えては湧き出しを

 

繰り返しているだけのように見えてくる。

 

それは、まさに消えてゆく姿そのもので、

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

 

湧き出てきたものを、そのまま去るに任せる。

 

それが、今の僕の、

 

外で起きる夢の出来事に対する見方となっている。

 

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