香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

分析するエゴ

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ようやく、やっとのことでゲイリーの4冊目を読破したぜ!

 

読破するのに二カ月かかった。

 

床を這う一匹の蟻を赦しているような専業主婦とは違い、

 

僕はいろいろと忙しいのである。

 

というのは冗談(笑)。(← パーサ風切り返し)

 

 

この本の中で、分析する事はエゴだ、と書かれているが、

 

僕が会社でやっている仕事も、数字の〝分析〟である。

 

医者、弁護士、税理士、会社員、教員、セラピスト、

 

など、多くの職業が分析を基盤として成り立っている。

 

運転手や店員でさえ、どうすれば最も効率が良いか、

 

常に分析して、運転したり、レジ打ちをしている。

 

まあ、ここはエゴが作り出した夢の世界なので、

 

分析だらけでも、なんら不思議ではないのだが、

 

ここへ来て、僕自身、分析することに疲れて来ている。

 

疲れている、というより、嫌気がさしている。

 

 

アーテンは、

 

分析していることはエゴだ、と、認識できてさえいれば、

 

どんな仕事をしても差し支えはないと述べているけれど、

 

みぞおちの奥に、

 

ハート(愛している感じ)を常に感じている状態で、

 

数字の分析をし続けるには、もうちょっと限界かも…。

 

売上が前月より減少した原因はどうのこうの、とか、

 

今月の運送費の増加は、エアー便を多く使ったからで、

 

なぜエアー便が多くなったかというと…、といったことが、

 

愛とは関係ない、無味乾燥なものとして感じられてくる。

 

 

僕はこの仕事をする事で報酬を得ているのだし、

 

多くの福利を受けながら香港に駐在できているのも、

 

この〝分析生活〟を送っているからなのだが、

 

世界を信じなくなってくると、なんでこんな事やってるのか

 

と、非常にシラケた、アホらしい気分にもなる。

 

 

まあ、これまでは、慣れた仕事でもあるし、

 

ここにいて、神の中で歓んでさえいれば、

 

外界で何をしていても関係ない、と思っていたけれど、

 

要するに、まだそんなに好きでもない会社にいるのは、

 

これをしなければ自分は生きていけない、

 

と信じている、ということなのだ。

 

だが、ここは夢の世界であるが故に、

 

何が起こっても絶対に大丈夫という確信が深まるにつれ、

 

別にこれをしなくてもいいじゃん、と思えてくる。

 

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「これも、あれも、神やん!神しかないやん!」

 

と、神を観じながらも、自分と神を分けていた状態から、

 

「自分は一度も離れることなく、もとから神の中にいた!」

 

と、神の中の自分が神を観じている状態を経て、

 

「自分も兄弟も、神と同じ全一だった!」

 

という、真の理解に至ればもう、この世界は、

 

取り消される目的以外の使い道がなくなる。

 

 

でも、肉体を持ってシャバにいる以上、

 

毎日、何かをして過ごすわけである。

 

同じ何かをして、赦しの実践をしてゆくのなら、

 

罪悪感からくる恐怖ではなく、

 

聖霊兄貴からやってくる想いに従い、

 

もっと、自由にやってもいいのかな、と、

 

決意を新たにする今日この頃である。

 

 

うちの子が反抗期で…

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〝自分が自分についてどう感じることになるかは、

 

    他人について、いまどう感じているかで決まる。〟

 

 

という、ゲイリーの4冊目『イエスとブッタが…』

 

の中に出てくる言葉を噛みしめている。

 

大勢の人がいるように見えているけれども、

 

大元をたどれば、心は一つであり、一つのエゴしかない。

 

そのため、うわさ話、思い出話、妄想劇場、

 

「えっ、なにこの人」という瞬間的な想いに至るまで、

 

何気ない冗談にせよ、たとえ、悪気がなかったにせよ、

 

自分が他人について話したり思ったりする

 

どんな小さなことも、それは自分自身のことだと、

 

ひとつの心には解釈されてしまう。

 

結果、相手に抱いている〝想い(解釈)〟が、

 

今度は自分のこととして世界に投影されてくる。

 

中国語で〝報應〟(応報)と言われるが、

 

まんざらデタラメではないような気がする。

 

 

一方で、すっごいコンババでアコギな人が、

 

なんの〝応報〟も受けることなく、運のよい人生を歩み、

 

恵まれた一生を送る、という夢のパターンもある。

 

 

まあ、ここからはあくまで僕の空想なのであるが、

 

分離した肉体を持って存在している兄弟達の中では、

 

こういった 業? カルマ? 因果? みたいなものを、

 

今世で順々に清算してゆく人と、

 

今世でイッキ溜めして、来世で返しまくる人の、

 

ふたパターンがあるように思われる。

 

それでもエゴは一つなので、どちらにせよ、

 

自分が発した思いは、いつかは自分へと戻ってくる。

 

ちょっと、話が横道にそれてしまったが、

 

想念は源を離れない、とはこういうことなのか、とも思う。

 

 

なので、自分の裁くことからくる想いには警戒する。

 

ほんの些細な自我も、認識した時点で〝止める〟こと。

 

そこから聖霊兄貴と共に、神の認識を採用してゆく。

 

それは、決して来世でよりよい人生を送るためではなく、

 

実存しないものを〝無い〟と見過ごすことで、

 

ここが夢であり、実存ではなく、自分はいま、

 

何もない場所で妄映を見ていることに気づき、

 

そこから、本来自分がいる場所を認識してゆくためだ。

 

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香港では、

 

政府への抗議活動がまさにピークに達している。

 

鉄道がしばしば不通になるため通勤に支障が出ている。

 

しかし、不思議なことに、香港市民からは、

 

抗議活動をする若者に対する批判が聞かれない。

 

みんな、淡々とさまざまな不便さに耐えているし、

 

ちょっと年上のおっちゃん、おばちゃんたちは、

 

うちの子が反抗期で、とでも言わんばかりに、

 

道路の後片付けを黙々と行なっている。

 

 

なので僕も、夢の中の人影には一切反応せず、

 

ただ実存しないものを聖霊と一緒に見すごすことにする。

 

 

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父を食べる

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⇑ 日曜日なのに、地下鉄もガラガラ!

 

もう、20年くらい前の話になるが、

 

当時、駐在していた、今とは違う会社の香港支店で、

 

会社案内のパンフレットを作成しようという企画があり、

 

香港にある日系の広告代理店を訪ねたことがあった。

 

その時、担当となった女性(30代/日本人/上戸彩系)が

 

とてもスリムなのに、ものすごい大食いなのであった。

 

 

一度、ホテルのケーキビュッフェをご一緒したのだが、

 

多分、出ていたケーキの半分くらいは、

 

彼女が食べたのではないかと思うくらいの大食いだった。

 

しかも、ただ食べるのではなく、盛り付けに気を遣い、

 

それはそれは美味しそうに、じっくり味わって食べる。

 

実際、ケーキビュッフェから、夜のビュッフェになっても、

 

彼女はまだまだ普通に食べ続けていた。

 

 

そんな彼女の幸せそうな表情を見ながら、当時の僕は、

 

「なんで、そんなに食べても太らないんですか。」と、

 

おそらく、過去に何百人の人から訊かれたであろう、

 

ベタな質問をした。

 

体質的なものもあると思うんですけど、と前置きした後

 

「わたし、食べ物を絶対に憎まないんです。」

 

と彼女は言った。

 

 

「若い女性とか、普段、レストランで料理を選ぶとき、

 

 この料理は大好きなんだけど身体に悪い、とか、

 

 ご飯は美味しいけど炭水化物だから太る、とか、

 

 これはカロリーが高いから、あっちにしよう、とか、

 

 これは私の嫌いな食材が入ってるからだめ、とか、

 

 食べ物を嫌いながら選んでるじゃないですか。

 

 私にはそういった〝罪悪感〟が一切ないんです。」

 

 

また、彼女はこうも言った。

 

「太るのは気にせず、好きなものを好きなだけ食べる、

 

 というポリシーの人もいるじゃないですか。

 

 そういう人も、

 

 どこかで食べ物を憎みながら食べているんです。

 

 心の中のうしろめたさを避けるために食べていると、

 

 たとえ好きなものを美味しく食べていても太るんです。

 

 太っている人は、食べ物に復讐されているんですよ。」

 

 

キッパリ!お見事!

 

と今なら拍手するくらい、彼女は断言していた。

 

いま、あの時の会話を改めて思い起こしてみると、

 

僕たちは、多かれ少なかれ、いろんな場所で、

 

食べ物をも裁きながら食べている、と解かる。

 

 

なんでこんな昔のことを思い出したかというと、

 

先日、ジムのトレーナーから、

 

最近痩せてきたので、今後はもっと糖質を摂りましょう、

 

と言われた際、そんなに糖質を摂ったら太るのでは、

 

という想いが出てきたのがきっかけだった。

 

別に、

 

ダイエットのために食べ物を制限することが裁くことだ、

 

と言っているのではなく、もっとその元となっているもの、

 

神を裁いた恐怖の代替として食物を裁いていることに

 

気づいたのだ。

 

神を恐れながら、大好きな神を食べている。

 

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 ⇑ ランドマークもガラッ、ガラ! 

 

好き嫌いの多い人、必要以上に食べる人、

 

レストランへ行ったとき、友人から、

 

私、これ要らないから食べて、と言われて断われない人、

 

逆に、自分の食べる料理を残すのが嫌で、

 

食べて、と他の人に押し付けようとする人、など、

 

ある意味、食べ物って、

 

肉体の生命維持に直結した欲望なだけに、

 

自我が出やすいのかもしれない。

 

 

別に、好き嫌いを失くせ、とか、ダイエットするな、

 

と言っているのではない。

 

その裏で使っている自我の概念に気づいていること、

 

これが決定的に大事となってくる。

 

 

今日、日曜日は、久々にトレーナーと筋トレをした。

 

やっぱり、ガンガン追い込んでくれる人がいるって、

 

一人でやるより成果も出てよい。

 

午後、セントラルのランドマークをぶらぶらする。

 

人、少なっ!

 

大陸の爆買い軍団がいない香港は閑散としている。

 

 

明日は会社、行けるかな?