香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

そんなこと思っちゃダメダメ!

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休み明けで、いきなりフィリピンのスービックにいる。

 

このまま金曜日までフィリピンでお仕事なのだ。

 

今回は、新しいキャッシュフローシートを導入するため、

 

財務の女の子たちに入力の仕方などを教えに行く。

 

 

というわけで、なんか、近頃、

 

自分が神を映す(霊である自分を映す)鏡になったよう。

 

 

神というひとつの解釈だけを通してすべてを観ていると、

 

これはセブパシの飛行機、あの人は工場の誰々、

 

という解釈からくる世界が消滅し、ただ神だった、となる。

 

また、人と話している時や、一人で何か考えている時も、

 

自分の心に湧いて出る、誰々さんはこうでああで、とか、

 

あの時、こんな事があった、あんな事があった、といった

 

批判的な思いが上がってきたとしても、

 

「あ、そんなこと思っちゃダメダメ!」ではなく、

 

それを〝個の自分の想い〟として掴まず、

 

ただ、現れては消える雲を見るように見過していれば、

 

飛行機や、工場の誰々が〝神だった〟と同様、

 

個の想いもやがて無と期し、神の実存だけとなる。

 

 

要するに、神という一つの解釈があるだけなのだ。

 

それだけになると、たとえ病気で苦しんでいたとしても、

 

失敗に見えるようなことをして、アタフタ対処していても、

 

今自分は神の中におり、神だけが在ることを思い出して、

 

今現れている神に抵抗せずにいる(赦している)ことで、

 

個の自分が、こうなってほしい、という思いとは関係なく、

 

自然になるようになってゆく。

 

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例えば、僕は毎月、香港支社の出勤状況と稼働日数を、

 

東京本社の総務へ報告しているのだが、

 

先月の稼働日数を18日と報告したところ、

 

計算してみると17日だったので修正したいのですが、

 

と、総務の女性からスカイプが入った。

 

だが、念のために確認すると、やはり18日が正しい。

 

それで、その趣旨を返信し、この件はそれで終わった。

 

まあ、こういった、どちらが間違ってます的なやり取りは、

 

日常業務では毎日のように発生するのだが、

 

〝起きてない〟から〝神の中でしか起きていない〟

 

に変換されると、これは総務の女性とのやり取りではなく

 

神(真の自分)とのやり取りのように感じられ、

 

その中に深い〝愛〟を覚えて感謝が湧きおこるのだ。

 

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⇑ 空港へ迎えに来てくれた運転手とランチ
 

 

クリスマスが明けたばかりの工場は、

 

閑散期ということもあり、どことなくゆったりとしている。

 

気温も日中が27度、夜も23度くらいと、過ごしやすい。

 

そうやって、近くの食堂でビールとピザの夕食を済ませ

 

夜8時ごろ、ホテルの部屋に戻ってきた。

 

前回と同じく、神ベッドのある部屋でくつろぐ。

 

たくさん重ねた枕に半身を起こして横たわり、

 

膝の上にパソコンを置いて何やかやしながら、

 

やがて、神の心地よさ(神の想い)の中で眠りにつく。

 

 

多分、また、意識が突然概念の方へバーンと振れ、

 

自我と同一化してびゅんびゅんするかもしれない。

 

それでも全然オーケー、自分は神の中にいて、

 

1ミリもそこから離れたことなどないのだから。

 

そして、神とびゅんびゅんしていることにする。

 

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神だけやん!

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今日からお仕事である。

 

と言っても、エドワードも出張で留守のため、

 

オフィスで一人、終日デスクワークをして過ごした。

 

パソコン、机、椅子、コーヒー、ホッチキス、コピー機、

 

何を見ても、そこから神の愛の光が放たれている。

 

自分は、パソコンや机に気づいているのではない。

 

すでにここに在る神に気づいている。

 

また、

 

「あの件は、今日中に処理を終えておかなければ…。」

 

「あっ、送金額が間違ってた。やっばーっ。」

 

「エアコンちょっと寒すぎ。でも、消したら暑いかも…。」

 

というような、仕事中に湧きあがる様々な思考でさえ、

 

実は、神の愛の想念だった、ということに気づく。

 

 

神の中にいた、もともと神しかなかった、愛だけだった、

 

という自覚が起きてからというもの、

 

何を見ても、何をしても、どんな考えが浮かんできても、

 

そこにはひとつの神が在るだけだ、になっている。

 

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ワイン、仕事、田中さん、と別々に見ていたときは、

 

ワインの中でもこれ、この仕事は好き、田中さんは嫌い、

 

と、様々な意味づけをして、反応をしてしまっていたが、

 

どれも、神という一つの解釈だけだったことに気づくと、

 

たとえ、嫌い、憎い、といった思いがやってきたとしても、

 

それも、神の愛、愛してる、となってしまう。

 

 

こんなことを思ったから自我だ、ではないのだ。

 

何を考えても、神の中では神以外はあり得ない。

 

神以外あり得ないのならば、個の自分もあり得ない。

 

その神の中の想いそのものが、真の自己なのだ。

 

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眼鏡に見えているけれど、それは眼鏡ではない。

 

悔しいと思っているけれど、それは悔しさではない。

 

神だった。

 

よく非二元の人が、これしかない、などと表現しているが

 

僕の場合、そこに愛があるので、やはりそれは神である。

 

 

例えば、自我と同一化している、と言ったりするけれど、

 

無い自我と同一化などできない、と思えてくる。

 

これは、本当に表現が難しいのだが、

 

今の僕が、たとえ何かに、ちょちょ舞っていたとしても、

 

それでも、僕は、神の愛の中にいて、愛そのものでいる。

 

ていうか、

 

神の愛の中にいる〝僕〟という存在もいないのだが…。

 

 

それでも、自分はまだ肉体を持っているので、やはり、

 

世界の中で、現象を見ながら過ごすことになる。

 

であったとしても、

 

神の愛が、ただ表れては消えてゆくだけであり、

 

自分はその消えてゆく姿を見すごすだけだ。

 

誰もいないし、なにも起こっていない。

 

神が在るだけ。

 

 

 

家出⇒徘徊⇒迷子

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以前も紹介したが、徘徊を繰り返す認知症の母と、

 

その母を介護する娘のドキュメンタリー、

 

『ママリン87歳の夏』をUSBに入れて何度も見ている。

 

なぜなら、見れば見るほど、この認知症のお母さんは、

 

今のボクらの状態そのものであり、娘さんが発する言葉

 

の一つ一つが聖霊によるものだと実感できるからだ。

 

認知症を題材にして、神へ戻る小説が書けそうなほどだ。

 

 

自分は誰かの何かを盗んだがゆえに、

 

刑務所に入ってしかるべき人間だと思い込んでいる母に

 

あなたは泥棒ではないので刑務所へ入る必要はない

 

と諭す娘、また、自分の家に帰ると言い張る母に、

 

あなたはもう自分の家にいます、と完全否定をする、

 

それでも、徘徊してしまう母の後ろを歩きながら、

 

ここぞ、というタイミングで、母に近寄り、

 

何してんのん、一緒にはよ家に帰ろ、と話しかけ、

 

家へとうまく導く娘、これを毎日5回くらい繰り返す。

 

 

多分、この認知症のお母さんの中では、

 

ちゃんと自分だけの思い込みの世界が見えており、

 

それが真実だと信じているに違いない。

 

だが、それを娘によって否定されるので混乱するのだ。

 

 

娘がいつも使うフレーズは、考えるのはやめなさい、だ。

 

あなたの考えは全部ボケてるから何も考えなくていい、

 

あとは神様に全部任せなさい。を繰り返す。

 

 

話を聞いた時は一瞬正気に戻るが、すぐ忘れてしまう。

 

僕達も兄貴の声に耳を傾けたと思ったら、次の瞬間には

 

そのことを忘れて、夢の世界に埋没していってしまう。

 

なので、何度も何度も、兄貴の声に耳を傾け、

 

自分の考えが間違っていることを自覚してゆく。

 

そういう意味で、起こることを諦観してゆくことは、

 

戻ってゆくうえで非常に大切だな、と、思うのだ。

 

(※諦観(ていかん):本質を見極めたうえで諦めること)

 

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こんなことを書いていたら、突然、ドッカーン、と音がし、

 

外を見ると、道路で普通車が事故を起こしていた。

 

ドアがひん曲がり、運転手は外へ脱出できないようだ。

 

やがて救急車やパトカーが来て、運転手が救助された。

 

 

こんな事故が起こらないようにするには…、とか、

 

あの時こうしておけば事故は起こらなかったのに、とか、

 

これも前世で学び損ねたレッスンのナンチャラ、とか…、

 

そういうのではく、ただそれは起こっただけ。

 

そして、本当は起こせてもいなかった。

 

意識は〝自動車事故が起こった〟と認知していても、

 

本当は、神の中で起こっていることなので、

 

それは、ただの認知障害で、

 

自動車事故ではなく、神だった、となる。

 

そして、神に気づいた自分が自己なのではなく、

 

気づかれている神の想いが自己であり、霊であった。

 

それが〝諦観する〟の本質なのだ。

 

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というわけで、明日からお仕事である。

 

だが、17日から16日間の一時帰国休暇に入るので、

 

明日からは、怒涛の日々を送ることになると思われ…。

 

しかし、それも、神の中だという認識のなかで行われる。

 

また、たとえ、概念の考えがぱっと出てきたとしても、

 

見過されるまま、消えてゆくに任せておけば、

 

実存ではないそれは自動的に消えてゆく。