香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

勝手に起きてる人生なんて

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昨日は、コース兄弟たちと新地で新年会だった。

 

久々に、ちゃんとした日本料理を食べた。

 

個室だったので、気兼ねなく大声で神を連呼でき、

 

たくさん神や愛について話し、楽しい時間を過ごした。

 

その中でも、ある兄弟の言ったことが印象に残った。

 

 

道を歩いていて、路地から車がさっと出てきた、とか、

 

前から人相の悪い男がやってきて通り過ぎていった、

 

とか、信号待ちで偶然知り合いに出くわした、といった、

 

何気ない日常の一コマ一コマはすでに決まっていて、

 

完ぺきに仕組まれ、シンクロしている、というものだ。

 

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食事中の何気ない雑談として話された会話だったが、

 

なぜかとても深く印象付けられた。

 

結局、この夢の世界は、すでに撮り終えた映画が、

 

シナリオ通りに進行していっているに過ぎない。

 

いきなりパソコン壊れる、というのまで決まっている。

 

あのとき、床に落としたからパソコンが壊れたんだ、

 

というのも、すでに仕組まれた筋書きだ。

 

ただ、次に何が起こるか知らない僕たちは、

 

起こったことにいちいちちょちょ舞い、対処する。

 

そして、ちょちょ舞い、対処するというシナリオを、

 

役になりきって演じることで、映画(自我)は存続する。

 

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なぜ、物語は決まっている、と言えるかというと、

 

いくら、人生は自分で切り開くものであり、

 

自分次第でどうにでも変えられるものだ、と言っても、

 

人生をこう切り開いていこう、という思いが、

 

勝手にふっと湧き上がってこない限り、

 

僕らはそれを選択することは不可能だからだ。

 

そうやって、意味なく、ふっと湧き上がって来た思いを、

 

自分で決めた、とか、自分の人生だ、と言っている。

 

 

なので、この夢の世界で、にっちもさっちも行かないとき、

 

自分の力でその状況を変えることなどできない、

 

と観念することだ。

 

すると、心に隙間ができ、ストーリーから解放される。

 

なんであの人はああなんだ、といっても無駄な話だ。

 

変わるかどうかなど、その人が決めるのではなく、

 

ふっ、と起こってくる想いや出来事で結果は決まる。

 

 

自我は、僕達が、決まっているストーリーに一喜一憂し、

 

必死で打開策を見出しながら葛藤することで存続する。

 

だから、そのストーリーを〝意味ねえ!〟と抵抗せずに、

 

見すごすことが、ストーリーから抜け出す一歩となる。

 

 

勝手に起きている人生なので、

 

勝手に起こるままにさせてやることで、

 

勝手になるようになって消えてゆく。

 

なにも心配する必要などない。

 

 

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そして、ストーリーが自分ではないと分かり、

 

今ここに在る神に抵抗しなくなった時、

 

本当は、そっちが自分だったと理解するのだ。

 

そうなることで〝もっといい世界〟が見えてくる。

 

 

とまあ、そんな感じで、兄弟たち、ありがとう!

 

また遊ぼな!

赦すなら、必ずオチまでもってゆけ!

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実家に戻ると、香港で事前にアマゾンで購入しておいた

 

商品の数々が自分の部屋に山積みになっていた。

 

「一日に何回も配達にきてくれはって、もうほんま、

 

 配達の人に申し訳なかったわぁ。」と82歳の母が言う。

 

 

ヒアルロン酸100%原液、アスタリフト保湿ジェル、

 

IPSシャンプーなどの、定番アイテムのほか、

 

英雄ブランドの小説家万年筆を購入した。

 

二本セットで2700円也。とてもこの値段には見えない。

 

書き心地もサイコーで、紙の滑りもよい。

 

仕事用には不向きだが、小説のプロットを練ったり、

 

ふと、思ったことを書き留めたりするのに使うつもり。

 

 

それから、なぜかもう一度読みたいと思い立ち、

 

エックタルトの〝POWER OF NOW〟を購入したら、

 

それ〝もどき〟な抜粋本が来た。 きいーっ!

 

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この英雄万年筆が本当は神だった、と気づくのと同様、

 

意識にふっと湧き上がってくる様々な思考、例えば、

 

誰かが何気なく言った一言に対して、

 

死ねばいいのに、と瞬間的殺意を覚えたり、

 

今のこの幸せを失ったらどうしよう、と恐怖を感じたり、

 

誰かをどうのこうのと批判したい気持ちが起こった時も、

 

やはり、その思いの本当の姿は神の想いでしかない。

 

 

これはダメ、あの人はイヤ、傷ついた、腹立つ、悲しい、

 

何でもいいが、それら、愛が欲しいという叫びの奥にも、

 

やはり、聖霊や神が隠れている。

 

逆に言えば、神を隠すために、悩んでいる。

 

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自分の中から湧き上がってくる想い、

 

相手から立ち上がってくる思考の泡ぶくを見すごし、

 

その背後にたゆたう、愛の想いに気づく。

 

それが、真に罪悪感を直視することの意味である。

 

ただ、恐怖や怒りや不安を、ジトーっ、と直視しながら、

 

あぁーっ、ううーっ、ひいぃーっ、やめてぇーっ、と、

 

罪悪のエクスタシーにのたうち回ることではないのだ。

 

それは天国のエクスタシーだったと気づくことであり、

 

そして、神に気づいているのが自分ではなく、

 

気づかれている神の方が自分(霊)だった、

 

という〝オチ〟まで持っていくことである。

 

 

つかんで、ボケて、ツッコんだら、

 

最後は〝オトす〟のが関西人の常識や!

 

 

故郷の夕暮れ

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金曜の夕方、大阪へ戻ってきた。

 

だが、関空に着き、早速ATMでお金をおろそうとしたら

 

三井住友のカードがお取り扱いできません、となる。

 

クレジットカードでも同様に取り扱いできない、と出る。

 

何度やってもダメで、手持ちの日本円も、外貨もないし、

 

このままでは実家までたどり着けない。

 

それでも、実践SWATな僕なので、さほど慌てることなく

 

悦びながらテクテク歩いていたら、案内所があったので、

 

そこのお姉さんに、こうこうこうで、と事情を説明したら、

 

カードに書いてある電話番号へ電話してみては、

 

と言われ、それで電話してみたら、担当の人がでてきて、

 

色々調べてもらったところ、前回プレスティアの支店で、

 

カードを一新した際、住所が海外になっていたため、

 

ブロックがかけられている、ということが判明した。

 

早速、解除してもらい、なんとかお金を下ろせた。

 

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関空特急はるかに乗ろうと、切符売り場へ向かえば、

 

春節を日本で過ごす中国の人たちでごった返していた。

 

皆、券売機の扱いに慣れておらず、全く列が進まない。

 

そこで、とりあえず直通バスで茨木まで行くことにした。

 

バス停で荷物を預ける兄ちゃんから、阪急茨木ですか、

 

と聞かれたので、思わず「いえ、国鉄の茨木駅です。」

 

と答えてしまい、ひゃーっ、となった。国鉄って…。

 

お兄ちゃんは無言でJR茨木の荷物引換券をくれた。

 

電車通学してた時の習慣が残ってたんだね、きっと…。

 

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バスの中で思った。

 

現金が引き出せないと知った時、

 

案内所のお姉さんに訊きいてみよう、と思ったのも、

 

JRの券売機の前で、中国人たちの長蛇の列を見た時、

 

とりあえずバスで家の近くまで行こう、と考えたのも、

 

バズ停で、思わず、国鉄茨木駅、と答えてしまったのも、

 

全部、そういう思いがふと湧き上がって来たのであって、

 

自分で考えたのでも、自分のアイデアでも何でもない。

 

 

現金が引き出せない、どうしよう、となった時、

 

どうして、案内所で訊いてみる、ということは思い立ち、

 

直接カードに書いてある電話番号に電話してみよう、

 

とは思わなかったのか、なぜ、阪急茨木駅ですか、

 

と聞かれ、国鉄茨木駅などと口走ってしまったのか、

 

そんなこと、勝手にふっと思いが湧いてきただけであり、

 

自分で決めたことでも、自分の選択でも、何でもない。

 

なのに、

 

なんであの時、あの事に気づかなかったんだろう、とか、

 

どうして、自分はあんな言葉を発してしまったのか、

 

などと思ってしまう。

 

 

これは自分が考えて取った行動であり、発した言葉だ、と

 

なぜかそう思っているので、それがうまくいかなかったり、

 

思いもよらない不運な出来事を引き寄せてしまうと、

 

何であの時、と自分に罪悪感を感じて責めてしまうのだ。

 

または、自分が感じた罪悪感を他者に転嫁し、

 

「いやいや、あの人がこうだったから、私はああなった。」

 

と他者を責めたりする。しかし、元ネタは全て自分だ。

 

 

こう考えてみると、自分で決めていることなど一つもなく、

 

何にも自分で決めていないのであれば、

 

何かを決めている自分など、存在していないと分かる。

 

自分がいないのに、罪悪感を感じるなんて、おかしい。

 

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よく、

 

自分で赦しをやろうとするのではないんですよ、とか、

 

今に在ろうと〝努力〟するのではないんですよ、とか、

 

ついつい神に〝気づこう〟としてしまうんですよね、

 

と、スピ教師たちが述べたりするが、ノー!

 

もともと、やろうしている自分など無いのであるから、

 

赦そう、今に在ろう、神に気づこう、という思いが勝手に、

 

シュワシュワ湧いてきたのであれば、やればいい。

 

だって、それは、自分で選択しているわけではないので、

 

「ああ、自分がやろうとしている。」

 

なんて、自分を責める必要などないのである。

 

それが、いま、ここに在る神に抵抗しない、ということだ。

 

 

まあ、こうして、無事実家へ戻った。

 

父はまだ僕のことを息子だと認識してくれていた。

 

今回は、関西から出ないつもりである。

 

だって、どこへ行っても、神しかいないのだから。

 

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