香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

いまの感触

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今日はマッサージに行ってきた。

 

もう15年来の付き合いになる按摩師のウィンさんには、

 

肘や甲や関節を使わず、指だけで揉んでもらっている。

 

指だけの施術を2時間も続けると、指自体が疲労して、

 

マッサージ師には大変な負担になるのだ、と、

 

昔、さおちゃんに教えてもらってからは、

 

肘や手の甲も使っていいよ、と言っているのだが、

 

ウィンさんはいまだに指だけでやってくれている。

 

なので感謝の意を込め、マッサージ料金以外に、

 

いつも、5000円ほどチップを渡している。

 

 

マッサージをしてもらっていて常に思うのは、

 

肉体の気持ちよさ、肌に感じる快感というのは、

 

今この瞬間に集中していないと感じることができない、

 

ということである。

 

マッサージの最中、何か他の事を考えていたりすると、

 

指で押されている一点、一点、の感覚に集中できず、

 

気持ちよさが〝から滑り〟してしまうのだ。

 

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視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった5感のうち、

 

視覚と聴覚は、再生可能な感覚である。

 

古い友人の顔を、いま、思い浮かべることはできるし、

 

音楽なんかも、いま、頭の中で再生できたりする。

 

匂いや味も、運子ちゃんの匂いや、梅干しの味など、

 

視覚や聴覚ほどではないにせよ、なんとなく、

 

記憶からくる感覚として思い出すことができる。

 

しかし、皮膚感覚というか、肌に感じる感触や触感は、

 

それを感じているその瞬間にしか再生されない。

 

過去の記憶として感覚化させることが不可能なのだ。

 

 

それって、ある意味〝愛〟だと思う。

 

もし触覚が、視覚や聴覚と同様に再生可能であれば、

 

過去に味わった痛みを何度も体験してしまうからだ。

 

 

〝気持ちよさ〟は、ハートの悦の感覚に最も近いので、

 

マッサージのように、皮膚の気持ちよさに集中していたり

 

逆に、肌に感じる感触などに意識を集中させることで、

 

いま、この瞬間へ意識を戻すことができる、と言える。

 

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先週、妹からマスクがないとLINEが入った。

 

三日連続で2時間並び、やっと買えたのが7枚という。

 

香港では、中国で生産され、輸出が禁止されている

 

日本向けのマスクが出回っているので、とりあえず、

 

60枚入りのやつを二箱、FEDEXで送った。

 

 

というわけで、

 

あと、4日働けば、香港はイースターの休暇に入る。

 

本来なら、更に有休を取って台湾へ行くつもりだったが、

 

香港でおとなしくしていることにする。

 

 

 

みんな、気は確かか?

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今日は一日中書斎で過ごした。

 

留学していた時に自分で作った広東語やベトナム語の

 

会話集ノートを見ながら語学の復習をしたり、

 

小説の新作プロットを作ったりして過ごした。

 

 

僕は一人で家にいるのが大大大好きなので、

 

自分の部屋だけは、少々お金をかけても、常に快適で、

 

居心地のよい空間にしておきたいと思っている。

 

そのため、チョイ姐に来てもらったり、

 

インテリアや間接照明にとことんこだわったり、

 

不用な物を捨て、部屋にモノを置かないようにしている。

 

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ここのところ、

 

認知症シリーズが続いているが、まだまだ行くぜいっ!

 

 

日頃、僕たちがイラついたり心配したりしていることは、

 

全て認知症の症状だ、ということである。

 

 

〝なんでアイツだけ昇進するんだ。モヤモヤ…〟

 

〝なぜか自分だけ無視されている。ドキドキ…〟

 

〝頭痛いって言ってるのにメシ作れって?ムカムカ…〟

 

〝仕事が見つからなかったら破滅だ。ゾワゾワ…〟

 

これって聖霊兄貴から見れば、認知症の人が、

 

〝アイツがいつもオレの財布から金を盗みよる。〟

 

〝妻が味噌汁に毒を入れてワシを殺そうとしている。〟

 

〝夫が息子の嫁と浮気をしている。〟

 

と訴えているのと全く同じレベルに見えている。

 

 

僕たちが、認知症の家族に、いくらそれは起こってない、

 

と言っても本人は全く聞き入れずに反抗するのと同じで、

 

僕たちもこれと同じ事を兄貴に対してやっているのだ。

 

 

現在の医療で認知症を完治させるのは難しいが、

 

もし、完治するとして、その過程を追ってみると、

 

自分は認知症だったと気づく👉何も起こってなかった👉

 

泥棒だと思ってたけど彼は私のお父さんだった👉

 

自分は彼の子供だったんだ👉よかったあ👉愛と感謝

 

とまあ、こんな感じなのではないだろうか。

 

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じゃあ、正気に戻るためにどうすればいいのかと言うと、

 

実践すべきことは二つである。

 

一つ目は、イライラ、ドキドキ、モヤモヤ、が湧いた時

 

「ああ、これは認知機能障害なんだ」と察知すること、

 

そして二つ目は、愛と感謝にフォーカスすることである。

 

認知症患者の完治した段階が愛と感謝であるのなら、

 

例えば、家族や友人に、小さな愛や優しさを感じた時、

 

見知らぬ人から親切にしてもらって有難うと言った時、

 

部屋の床に反射する木漏れ日に美しさを見出した時、

 

そこへぎゅーっと焦点を合わせることで正気へ戻るのだ。

 

本当に起こっていると思っている時には気づかなかった

 

小さな喜び、ちょっとした親切、それが正気の姿だ。

 

 

決して認知症の人を侮(あなど)るなかれ!

 

彼らこそが、僕らの今の姿を代弁してくれている。

 

まさに、認知症の人見てわが振り正せ、である。

 

 

スモールモヤモヤ

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〝二時間並んで買えたマスクがたったの7枚!〟

 

〝彼女がウラで、私の事をあんな風に言ってたなんて〟

 

〝今日着て来たこの服、ちょっと失敗だったかも…〟

 

〝この事をあの人に知られたら、またなんか言われる〟

 

〝今月の支払いどうしよう。第一私の給料は安すぎる〟

 

 

僕たちは、

 

何かしら〝モヤモヤ〟しながら毎日を生きている。

 

これが自分の人生を一変させるような一大事だったら、

 

何はともあれ、腰を据えて赦そう(解決しよう)とするが、

 

上に書いたような不快感は、もう普通になりすぎて、

 

「ま、そのうち…」と普通にスルーしてしまいがちだ。

 

しかし、こういった〝スモールモヤモヤ〟こそが、

 

僕達がいかに狂っているかを知るためのカギとなる。

 

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前回の記事で、あるドキュメンタリー映像を紹介した。

 

87歳で認知症のママリンは、自分が囚人だと思っており

 

一体自分は刑務所に入るようなどんな罪を犯したのか、

 

と、何度も何度も自分の娘に問い続ける。

 

その都度、娘が、ここは刑務所ではなく、自分の家で、

 

ママは囚人でもなんでもない、と根気よく教える。

 

しかし、娘が質問にひとつ答えるたびに、

 

「ここはどこ?あんた、だれ?」とママリンは聞き返す。

 

そのたびに娘は 「あなたの娘の章子です。」 と答える。

 

 

さっき、ご飯を食べたばかりなのに、まだ食べてない、

 

と駄々をこねる認知症の老人を見て、

 

もうちゃんと食べましたよ、と微笑みながら言えるのは、

 

僕たちが、それは真実ではないことを知っているからだ。

 

これと同じで、大嫌いなあの人が私を攻撃してくるーっ、

 

と苦しむ僕たちを見て、それは起きていないよ、と、

 

微笑みながら平然と聖霊兄貴が言えるのは、

 

認知症の老人に対する僕たちのスタンスと同様、

 

本当に起きていないと分かっているからなのだ。

 

 

要するに、

 

「また、あの人から、嫌なことを言われた。」

 

と、日常生活の中で僕たちがモヤモヤするのと、

 

「自分は刑務所に入るようなどんな悪いことをしたのか。」

 

とママリンが思うのは、

 

全く同じレベルのことを言っており、

 

どちらもただの思い込み(認知機能障害)である。

 

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「あなたの考えることは何から何まで間違っていて、

 

 全部ズレまくっているので、もう、一切、金輪際、

 

 考えていることを本当だと思うことをやめなさい。」

 

と、聖霊兄貴から警告が入る。

 

考えることを止める、のではなく、

 

考えていることが本当だと思い込むことを止める、

 

というのがミソで、考えを止めようとすることよりも、

 

考えていることは、認知症の症状が出ているのだ、と、

 

見破ることが先決なのだ。

 

 

僕が軽度の認知症である父と話しているとき、

 

父が、頭の中で思い込んでいる妄想の方ではなく、

 

僕が言っていることを信じてくれたら、

 

父はどんなに楽で平安だろうか、と思うのだ。

 

これと同じことを兄貴も思っている。

 

〝あなたが考えていることは何から何まで全部、

 

 トンチンカンでズレているのだから、

 

 それに気づいた時点で、こちらに一切任せなさい〟

 

と…。

 

 

イラっとする上司にイラっときたとき、

 

忙しすぎて頭がくらくらするようなとき、

 

子供の生意気な態度にカッチーンッときたとき、

 

こんな自分はダメダメダメ、とヘコみそうになったとき、

 

あ、これって、認知症の症状が出ているんだな、

 

と〝認知〟してゆくのだ。

 

正気への第一歩は〝認知すること〟から始まる。