香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

タメ口(ためぐち)事件

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普段からハートや神を感じているからと言って、

 

赦しのレッスンが無くなる、というわけではない。

 

意識の中の怒りや不安を誘発させるような出来事が、

 

兄貴によって、ここぞとばかりに浮上させられてくる。

 

 

ただ、こういうレッスンが訪れた時、以前と違うのは、

 

なぜこんな事が起きているのか、なんで腹が立つのか、

 

自分は何も理解していないことを知っている点にある。

 

なので、

 

自分で何とかしようとジタバタすることがなくなる。

 

 

で、僕の赦しどころと言えば、言わずと知れたあの人だ。

 

ここ一年ほどは、ずっと愛しか感じていなかったのに、

 

僕の中のまだ〝赦せていない部分〟を投影する対象が

 

彼しかいないせいか、また彼にお役目が回ってきた。

 

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コンババ部長は僕の上司である。

 

しかし、年齢は僕より何歳か下なのだが、

 

彼は前社長の妹さんの婿でもあり、入社時から、

 

経営陣の一人として財務全般を任されている。

 

いわば、僕にとっては、年下の上司ということになる。

 

 

その彼が、なぜか、僕と話すときだけタメ口なのだ。

 

それが常にではなく、二人で電話で話している時とかに

 

「…なんじゃないの」「…じゃん」「だからさあ…」となる。

 

その声が大きいものだから周囲の人に丸聞こえなのだ。

 

僕は、若い頃に行なった、ひどいパワハラへの自戒の念から、

 

会社では、年齢に関係なく全員と敬語で話すと決めている。

 

なので、

 

彼が僕にタメ口で、年上の僕が彼に敬語で話していると

 

周囲も違和感を感じてしまうらしく、

 

僕自身、すごくぞんざいに扱われているような気がして、

 

言いようのない不快感を感じてしまう。

 

日本人として、かなり失礼なんじゃないか、とも思う。

 

 

いや、それが誰にでもタメ口な人だったらまだしも、

 

僕にだけ、敬語の中に微妙なタメ口が混ざるのだ。

 

イラついた時とか、なんかの拍子にタメ口モードになる。

 

 

彼とは、深圳工場や佛山工場をクローズする時から

 

二人でずっと極秘にリストラ作業を進めてきた仲なので、

 

気心が知れている、と言われればそうかもしれないが、

 

そもそも、年下の上司からタメ口をきかれてる、などと、

 

周囲の人に思われること自体、プライドが傷つくようで、

 

なんか、モヤモヤくるのだ。

 

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で、今朝も、本人から電話があり、

 

フィリピンの財務諸表について会話をしている時、

 

「ちょっと…するから」「これさあ…なんだよねえ」

 

とはじまった。

 

不快感からくる怒りがゾワゾワと上がってくる。

 

ああもうダメ、先日のコーヒーカップ事件の時と同様、

 

「おい、お前、いい加減にしろよ!」

 

と、言いそうになった次の瞬間、僕の心の中に、

 

〝どんな怒りも正当化されないんだよなあ〟

 

〝この怒り、彼のタメ口が原因じゃないんだよなあ〟

 

〝本当は怒りたい自分が、投影先を選んでるんだ〟

 

という声が〝ふっ〟と上がってきて〝ハッ〟となった。

 

 

誤解を避けるために言うならば、ここで言う、

 

怒りを正当化しない、とは、怒りを持ってはいけない、

 

という意味ではなく、自分で見つけた理由を盾に、

 

その怒りを正当化させてはならない、という意味である。

  

コンババ部長がタメ口をきくので、自分は怒っている、と

 

自分の怒りを正当化することはできない、

 

ということなのだ。

 

そして、この正当化が、次のループを生む罠となる。

 

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結局、何も言わずに、彼との電話を切った。

 

その後の連休中も、怒りの感情は上がってきた。

 

また、極端な〝妄想劇場〟に幾度も襲われた。

 

 

しかし、この怒りに対して、自分では何もできない、

 

ということは理解しているので、ソファで静かに目を閉じ

 

この怒りの感覚だけを、みぞおちの少し奥の方にある

 

祭壇の上へ置くと、ぱっと両手を上げ〝はい、どうぞ〟

 

と、解釈無しに、ただただ聖霊兄貴に差し出し続けた。

 

 

一旦兄貴を信頼して任せたのだから、

 

もうどんなに不快であろうと、それに抵抗せず、

 

毒素のような感覚をみぞおちの祭壇に放置し続けた。

 

 

一時間ほど経過し、ふと思い立ってテキストを拡げた。

 

 

〝非難者の役割は、多くの場所に、

 

 多くの形で顕れるだろう。そして、それぞれが、

 

 あなたを非難しているように見えることだろう。

 

 しかしそれが取り消されないかもしれないと、

 

 恐れることはない。それは、最後には消え去り、

 

 あなたの心を、平安のもとに残すという確信を抱いて

 

 幸せでありなさい〟

 

 

〝私は、私であるものを知らない。

 

 だから、私が何をしているのか、どこにいるのか、

 

 或いは、この世界や、自分自身を、

 

 どのように見たらよいのかも、知らない〟

 

 

〝だが、この学びの中で救済が生まれるのである。

 

 そして、本来のあなたである存在が、

 

 あなたに、それ自身について教えてくれるだろう〟

 

(奇跡講座テキスト第31章Ⅵ.霊を認識する より抜粋)

 

 

この一節を読んだ瞬間、涙がこみあげてきた。

 

 

立ち止まって、静かに差し出しているだけでいい。

 

その怒りを正当化させるような何の理由も挟まず、

 

ただ、みぞおちに在る祭壇に差し出して、黙る。

 

聖霊兄貴はすでに、僕の中で僕を安全に導いている。

 

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今回は、ちょうどいい具合に連休が重なったので、

 

どっしり腰を据えて、

 

みぞおちの祭壇から聖霊に差し出し続けている。

 

 

これまでの経験から言えば、差し出して沈黙してから、

 

ハートが上がってくるまでには多少のタイムラグがある。

 

なので、何もせず、意味づけもせず、

 

ただ幸せでいることにする。

 

 

 

瞬間の輝き

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婚姻関係、お店、家、お金、人気、栄光、若さ、など

 

続いているかどうか、今も残っているかどうか、が、

 

この夢の世界では、幸せの基準になっている、

 

ような気がする。

 

 

思いつくままに挙げれば、

 

結婚何十年で、今もラブラブだと勝ち組で、

 

子供を三人抱えて離婚していたら負け組、とか、

 

何百年続く老舗の名店は素晴らしく、

 

名店だったが閉店してしまったら終わり、とか、

 

金メダルを獲り、栄光の真っただ中にいた選手が、

 

怪我で選手生命を絶たれたらただの人、とか、

 

他にも、若いときは絶世の美女だったのに…、

 

みたいに、いまもそれが継続されているか、

 

好いとされているものの状態が今も残っているか

 

が、価値の決め手となっているところがある。

 

 

僕で言えば、香港で駐在員を継続させることこそが

 

平安であり、幸せなのだ、と思い込んでいたので、

 

去年の冬に、東京帰任の辞令が出た途端、

 

不安感や喪失感で、上へ下への大騒ぎとなった。

 

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しかし〝いま〟という視点から見たとき、

 

継続していても、していなくても、同じだと解かる。

 

今、この瞬間の神をじっくり味わうことをしていると

 

たとえ一瞬しか続かなかった幸せであっても、

 

当時のその瞬間に味わった〝その時の今〟の

 

幸せな感覚は、まぎれもなく神であり、

 

その神は今もここに在る。

 

だから、いま、この瞬間に在る神を味わえば、

 

カタチが変化していようが、無くなっていようが、

 

それはもう永遠に、ここに在る、と解かる。

 

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👆 お気に入りのパン屋。
 

 

すっごくショボい例で恐縮なのだが、

 

昨日、仕事帰りに、明日の朝食べるパンを買おうと

 

バスを乗り継ぎ、お気に入りのパン屋へ向かった。

 

その店のクロワッサンとスコーンはもう絶品で、

 

明日から4連休だし、明日の朝は、

 

コーヒーとハムエッグと美味しいパンを食べながら、

 

オシャレでアンニュイ(しょうわーっ)な朝を過ごそう

 

と思いたったのだ。

 

しかし、そのパン屋は、新型コロナの影響で、

 

時短営業をしており、僕が到着した時には、

 

すでに閉店した直後だった。

 

普通なら、これを肉体ベースで見てみると、

 

わざわざ来たのにツイてない、時間の無駄だった、

 

パンを買うというこの一連の行動は無意味だった、

 

なんで事前に調べなかったんだ、後悔―っ、

 

となるのだろうが、神を味わうという観点で見れば、

 

目的が達成されたかどうかは関係なく、

 

そのパン屋へ来るまでに観た景色、

 

明日の朝食べる朝食を想像していた時の喜び、

 

iPodで聞いていた音楽、その瞬間に味わっていた

 

歓びの感覚は紛れもなく神の想いである。

 

別の言い方をすれば、その歓びの感覚(神)は、

 

愛する人やお金や仕事から来ているのではなく、

 

自分の中から来ているので、今味わおうと思えば、

 

呼吸しているだけでも得られる、ということである。

 

 

もっともっと言ってしまえば、

 

いま、この瞬間に感じているものが、

 

たとえ不安感や、恐怖感や、喪失感であっても、

 

やはりそれも、神の愛の感じの〝裏返し〟だ、

 

と解かる。

 

 

なので、いま、見えている光がなんであれ、

 

何の解釈も差し挟まず、観とめ、聞きとめ、

 

味わった感じをただ差し出してゆく。

 

 

で、結局パンは家の近くのエーワンで買った。(笑)

 

 

本当に味わう

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👆 ジンリッキー

 

今日は端午の節句の祝日で、会社はお休みである。

 

明日は、クーラーの足場を取り外しに来るというので、

 

僕も有休を取り、4連休とした。

 

それで、お休み一日目の今日は、どこへも行かず、

 

部屋で創作でもしながら、うだうだ過ごすつもりだ。

 

 

夏至の前くらいから、香港は連日35℃の猛暑である。

 

行きつけのバーへは週一ペースで通っていて、

 

昨夜も、暑いのでさっぱりしたカクテルを、と注文したら、

 

マスターがジン・リッキーを作ってくれた。

 

ジンと、ライム果汁と、ソーダをステアした、

 

糖分ゼロのカクテルで、じつにさっぱりして美味かった。

 

ハッピーアワーには1杯分の料金で2杯飲めるため、

 

もう一杯はホワイトレディーを作ってもらった。

 

ホワイトレディーもかなりドライなカクテルで、

 

こうして、甘いお酒が好きではない僕の好みに合わせ、

 

マスターは毎回、いろんなカクテルを味わせてくれる。

 

 

しかし、最近味わっているのはカクテルだけではない。

 

日常の一瞬一瞬を味わい尽くしている。

 

パソコンの画面に映る数字、道行く人々の姿、

 

街路樹のざわめき、同僚の笑顔、パン屋の匂い、

 

または、複雑な業務メールを受け取った時の気分、

 

寸でのところでバスに乗り遅れてしまった時の感じ、

 

解釈を入れず、ただ、それそのものを味わう。

 

するとやがて、そこに神の気配が在ることに気づく。

 

過去に失くしてしまったと思っていたもの、

 

ずーっと以前に出会ったことのある懐かしい何か、

 

旅立つ前日のどこかウキウキソワソワする高揚感、

 

全てがいま、ここにあり、そして、それは神だった。

 

 

本当はそれは何なのか、に気づきながら過ごす。

 

そんな感じでこの連休は、

 

いまを丁寧に味わいながら過ごすことにする。