香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

赦しと許し

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今日は土曜日。家から一歩も出なかった。

 

今日も昼過ぎから部屋の掃除を行なった。

 

今では、手の届かないタイルの壁の上の方まで

 

専用のモップで拭く始末で、

 

かなり、掃除にも年季が入ってきている。

 

なんか、自分の心の中を掃除しているようで、

 

やっていて、なんとも清々しい気分になる。

 

オレ、ひょっとして、

 

チョイ姐より掃除上手いかも…。(ドヤ顔)

 

 

夜は冷凍のステーキを焼いて食べた。

 

本当はジムで自主トレをしようと思っていたが、

 

瞑想するうち、その延長で爆睡してしまった。

 

以前の自分だったら、時間を無駄にした感が

 

半端なかったのに、今はもう、全てオーケー、

 

自分のやる事、成す事、それでよくなっている。

 

 

僕は、

 

自分を〝赦す〟にはまず、

 

自分を〝許す〟ことが必要だ、と思っている。

 

自分にちゃんと許可が下りていないのに、

 

それは自分の考えではなく、実在ではない、と、

 

様々な葛藤を赦していくことなど不可能だと…。

 

 

ジガオに100%乗っ取られている状態から、

 

いきなり100%神へ振り切ろうとすると、

 

そのギャップから余計にジガオの声が増し、

 

本当は、

 

ジガオはそんなことなどしていないのに、

 

まるで、ジガオに逆襲されているように感じる。

 

 

なので、神へと向かう前に、

 

まずは、外に感じていた意識を自分に戻す、

 

ということが重要になってくる。

 

とにかく、我に返ることが先決だ。

 

決断の主体なんちゃらで聖霊を選びなおし…、

 

なんて、とりあえずは考えなくていい。

 

不安や怒りでちょちょ舞ってるときに、

 

そんなの絶対無理だから…。

 

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では、自分を許す、自分に許可を出す、

 

とはどういうことかというと、

 

自分に優しくしてあげることである。

 

どんなことがあっても自分を責めない、

 

自分の言動、考え、全てにオーケーを出す。

 

これは仕方なかったんだよ、とか、感謝、とか、

 

自分を納得させるような解釈も要らない。

 

無条件に自分の頭の中で感じていることを

 

ただただ受け入れてやること。

 

 

醜いことを思っている自分に許可を出し、

 

どんなにわがままな自分をも肯定し、

 

ヘタレでポンコツな自分でも全然オーケー、

 

と、どこまでも自分に寄り添ってやる。

 

それは、兄貴と全く同じスタンスだと言える。

 

 

自分に対してどう思っているかが、

 

現実となってこの空間に顕れてくるので、

 

自分の心の中が優しさで満たされてゆけば、

 

現実の絵も優しくなるのは当然である。

 

 

コーヒーカップ事件のとき、

 

僕は確かに、くだらないことで腹を立てた。

 

しかし、そんな自分をダメだ、と否定しなかった。

 

腹を立てることをちゃんと自分に許可したのだ。

 

結果、癒された思いは赦され、消えていった。

 

 

赦しとは、

 

受け入れ、許可を出してやることから始まる。

 

 

密かな願望

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以前、タメ口事件や、恐怖のハッピー事件を、

 

みなさんにご紹介したと思うが、

 

自分が嫌っている人間、または、

 

見ていて赦せない人間というのは、

 

自分が心の中で否定し、抑圧した感情が、

 

背後で繋がっている想いの筒を通して、

 

相手に投影されて顕われている、ということが

 

本当の意味で、理解できて来た。

 

 

皆、人それぞれ、しょっちゅうではないけれど、

 

人生の中で定期的に現れる、

 

〝嫌いな人〟というのがいる。

 

例えば、

 

空気を読まず、何でもズケズケ言う人が嫌い、

 

細かいことを言ってくる人が死ぬほど嫌い、

 

なれなれしい人が嫌い、謝らない人が嫌い、

 

など、人や場所や状況も違うのに、なぜか、

 

同じパターンの人が目の前に出現するのだ。

 

 

僕の場合で言えば、

 

自分は年下年上関係なく礼節を重んじて、

 

丁寧な言葉使いをしているのに、なぜか、

 

年下なのにタメ口をきいてくるやつ、とか…。

 

 

そんなとき、コース兄弟だと、

 

自分の中の、あると思っている分離の想いや、

 

罪悪感を、それは無かったとして赦そうとする。

 

聖霊に委ね、明け渡し、修正を依頼する。

 

それでも、やっぱりモヤモヤは無くならない。

 

忘れた頃にまた、手を変え品を変え、

 

同じような人が出現する。

 

で、解かった。

 

本当は、

 

自分が密かに〝やりたい〟と思っている事を、

 

自分の前でやってのけている人を見て、

 

ムカついている。

 

ある意味、自分で自分を嫌っているので、

 

赦す、なんて絶対に無理なのだ。

 

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自分は礼節を重んじて敬語で話しているのに、

 

タメ口で来られたら、おまえーっ、となるのは、

 

本当は、礼節を重んじたくなかったからだ、

 

礼節を重んじて我慢してやっているから、

 

抑圧された思いがスクリーンに投影され、

 

そういうタメ口で来る人が出現していた。

 

 

本当は、自分が、タメ口を聞きたかった。

 

本当は、自分が、ズケズケ言いたかった。

 

本当は、自分が、細かい事を指摘したかった。

 

本当は、自分が、出しゃばりたかった。

 

相手がやってる〝嫌い〟なことは、本当は、

 

自分がやりたいと思っていることだった。

 

 

いやいや、自分にはそんな部分なんかない。

 

いやいや、自分はそんな醜いことなどしない。

 

いやいや、自分が、死ねなんて思うわけない。

 

しかし、自分が自分で嫌っている部分を、

 

他人に押し付けて見ているので、

 

自分の中を探しても無いのは当たり前である。

 

 

だから、先ずは、ムカつく、コノヤロー、死ね、

 

という感情を、持っててもいい、と受け入れる。

 

相手をキライでもいい、と肯定してやる。

 

そのうえで、

 

自分に何を我慢させているのか見てみる。

 

 

気分が悪かったら、ツンケンしていていい、

 

怖かったら、人のせいにしたっていい、

 

話を聞いてほしければ、

 

自分の事ばかり喋りまくったっていいんだ。

 

いつも謝ってばかりなら、死んでも謝るな。

 

自分が嫌っている人がやっていることを、

 

自分にさせてやることを許可する。

 

実際に人前で実行してみせなくてオーケーだ。

 

先ずは、頭の中で認めてあげること。

 

 

しかし、これって、一回勇気を振り絞って、

 

人前でやってみると、パッと消える。

 

対象の人物が変わるか、いなくなるかする。

 

以前は、クソみたいな自分を直視するなんて

 

サイテーと思っていたが、実際やってみると

 

苦しいどころか、すごく解放される。

 

そしてそれが、

 

他人に投影したものを自分に戻すことになり、

 

まず自分に戻って初めて、

 

赦すことができるのだと悟った。

 

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と、そこである実験をしてみた。

 

コンババ部長はじめ、年下の人物全員と、

 

タメ口で話すようにしたのだ。

 

それも、べたべたの関西弁のタメ口である。

 

「~やってるんちゃうん?」

 

「そんなん、ありえへんやろ」

 

「俺に言われても、わからん」

 

メールでも、以前は、よろしくお願いいたします、

 

だったのが、ただの、お願いします、にした。

 

すると、不思議なことに、

 

向こうが敬語を使ってくるようになったのだ。

 

コンババ部長が、~やっていただけますか、

 

などと言ってきたりするので、

 

気持ち悪いったらありゃしない。

 

 

密かに自分がやりたいと願っていた願望を

 

実行してやることで、投影が引き取られたのだ。

 

投影が消えた後の彼は愛そのものとなった。

 

 

赦せないと思っている他人の嫌な部分は、

 

本当は自分がそれをやってみたかった、

 

という、密かな願望を象徴しているのだ。

 

ジガオのささやき

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愛している、が止まらない。

 

〝ここ〟が自分の心の反映そのものなんだ

 

と腑に落ちると、見えているもの全てに、

 

愛してる、という想いが込み上げて来て、

 

テーブルや、ソファや、グラスを撫でながら、

 

大好きだよ、と心の中で呟いてまわる。

 

道行く人々にも、

 

心の中で、愛してるを連発する。

 

するとまた、背後が愛で満たされてゆく。

 

 

面白いのは、こみあげてくる想いが、

 

〝ありがとう〟ではなく、

 

〝愛している〟という点だ。

 

感謝というより、やはり、愛、なのだ。

 

まるで神が歌を歌っているみたい。

 

 

まあ、江後田自我男から見れば、

 

大の男が、家具を撫でながら、

 

愛してる、と呟いてまわるなんて、

 

気持ち悪くて、ドン引きしてしまうが、

 

自分的には、やっと正気に戻ってきたな、

 

という感覚でいる。

 

 

だから、兄弟達にも、自分の中から湧き出る

 

小さな小さな愛してる、に気づいて、

 

それを大切にしてほしいと思っている。

 

それが神の流れに乗ることであり、

 

背後で生きる、ということの意味である。

 

 

それにしても、

 

独り暮らしで本当によかったと思う。

 

よく考えてみれば、こういう内的な変革って

 

誰にも邪魔されない一人の空間で起こる。

 

例えば、ものすごい怒りに震えたとき、

 

大声で罵りながら、枕を叩きまくることで、

 

怒り👉本当は愛されたかった👉愛やん、と

 

怒りが愛に変革を起こしたりする。

 

これが、家族と同居だったりすると、

 

どうしても自分の感情を押さえてしまう。

 

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愛って、究極の自己肯定感なのだと思う。

 

腹立つーっ、妬ましいーっ、死ねーっ、

 

といった自分の中のネガティブな感情さえも

 

認め、肯定して、受け入れてやった時、

 

それらは愛へと昇華されるのだ。

 

 

 

まあ、これが二極化というやつなのか、

 

向かい合う前方の空間だけで生きる組と、

 

背後の無限の全体だけで生きる組が、

 

どんどん乖離して行っている気がする。

 

僕も、夏至から秋分にかけ、

 

一気に内側(背後側)がリアルになった。

 

それはもう、ものすごい勢いで、

 

後ろへと吸引されていっている感じである。

 

 

こうなってくると、

 

夢の現実である空間世界も、

 

優しく、穏やかなものに差し替えられてくる。

 

まあ、内側の自分を完全肯定し、

 

背後を愛で満たしているのだから、

 

それらが、ドーナツ状の筒を通って、

 

現実のスクリーンへ反映されてくるのは

 

当然と言えば当然である。

 

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江後田自我男の囁きも、

 

「また、ジガオがなんか言ってる。うざっ」

 

という感じで、その度に、背後へ戻るための

 

合図として利用するようになると、

 

僕の場合は、数年前からそうなのだが、

 

その人やその出来事自体が愛に変わるか

 

自分の世界から消えていなくなるか、

 

もしくは、自分の見え方が変わる。