香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

畳に〝の〟の字

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今日の夕食は何にしようと思っていると、

 

いつもお世話になっているカリスマブログで、

 

SHAKE SHACKというバーガー屋さんを

 

紹介していたので試しに行ってみた。

 

家から徒歩5分の所にあった。

 

なんといっても僕は、

 

香港の渋谷に住んでいるので(おーほほほ!)

 

人気のお店や、おしゃれなお店は全て、

 

徒歩10分圏内に網羅されているのだっ!

 

(おーほほほっ!)

 

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NY初の人気バーガーショップらしく、

 

店内はシックで、広々としていた。

 

 

こんなハンバーガー初めて食べた。

 

バンズが薄く、ふわっふわなので、

 

ほとんど肉と具だけを食べている感じ。

 

BBQバーガーとSHACKバーガーを食べたが

 

全く味が違うのにどちらもジューシーで美味い。

 

ハンバーガーを美味いと思ったのは初めてだ。

 

食べ終わるのが惜しいくらいだった。

 

日本でも12店舗展開しているという。

 

(カリスマブログからの情報)

 

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話は変わって、嬉し恥ずかし、という言葉を

 

ハレ師匠のブログで見つけた。

 

これって、僕たちの、父に対する気持ちを、

 

適切に言い現わしている言葉だと思う。

 

嬉しいんだけど恥ずかしい、好きだけど怖い、

 

好きで好きでたまらないのに、

 

いざ相手が、突然、向こうからやってきたら

 

慌てて逃げ出す、みたいな…。

 

 

僕もこのブログで、

 

神だ、兄貴だ、愛だ、と連呼しているが、

 

いざ 「お呼びでしょうか」 と父が現れたら、

 

冷や汗たらたらで逃げ出すような気がする。

 

 

というわけで、中学生の初恋ではないが、

 

神の前でちゃんと好きだと言えるようになるには

 

経験を積み、度胸をつけていくしかない。

 

 

いきなりドストレートに神、は無理なので、

 

まずは神が反映されているもので練習してゆく。

 

伴侶、家族、ペット、洋服、食物、仕事、など、

 

自分が大好きと思っている人や物に対して、

 

大好き、美味しい、サイコー、と、

 

歓びの想いを感じて、しっかり味わうことで、

 

神の想いに慣れてゆくのだ。

 

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それにしても、嬉し恥ずかし、なんて気持ち、

 

もう何十年も味わってないなあ。

 

いや、まだチャンスはあるかも…なのだ!

 

 

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スネ男とジガ男

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自我のささやき(またはつぶやき)というのは、

 

最終的にはすべて、愛がほしい、という叫び

 

でしかないのではないか、と思い始めている。

 

 

「これ、早くやっとかなきゃまた何か言われる」

 

「うわっ、間に合わない、ヤバい」

 

「なんで、いつもあんなことを言ってくるんだろう」

 

「あーあ、またやっちゃった、何してるんだ」

 

 

自分の心の中に四六時中湧き上がってくる

 

ジガオのつぶやき…。

 

これって全て「愛してほしいぃーっ!」の一言を、

 

色々なバージョンで言っているだけな気がする。

 

 

なので、自分や他人へのツッコミが出てきた時、

 

それは、愛してほしい、と言っているのだから、

 

「よっしゃ、じゃあ、愛してやるよ」

 

と心の中で返すようにしている。

 

 

ジガ男はただ、耳元でささやいているだけで、

 

実際に存在しているわけでもなければ、

 

自分の考えでもない。

 

なので、愛してほしい、が満たされさえすれば、

 

勝手に消えてゆく。

 

 

まあ、赦し方は人によって様々だと思うのだが、

 

僕の場合は、罪悪感やエゴを直視するより、

 

愛に気づいていることにフォーカスすることで

 

自我に向き合う方が、自分に合っている。

 

なぜなら、

 

神が愛の歌しか歌わないのであれば、

 

神へと帰ってゆこうとしている僕たちも、

 

そうでなければおかしいし、当然それは、

 

消えゆく自我に対しても同じだと思うからだ。

 

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というわけで、月中から、月末にかけては、

 

比較的仕事が落ち着いているため、今日は、

 

そういった、小さなジガ男のささやきに気づき、

 

愛で返していく、ことをやっていった。

 

 

昼の弁当はたんぱく質を摂らないとだめだ、とか

 

これはオレがやる仕事じゃないだろ、とか、

 

ああっ、コップにヒビが入っちゃった、とか…。

 

そのたびに「俺は愛する」と、

 

心の中で宣言し返す。

 

ただそれだけなのだが、やってみると、

 

ささやきの裏に隠れている〝愛してくれ〟が、

 

〝愛されている〟へと変換され、次第に、

 

みんな愛の歌しか歌っていなかったんだあ、

 

となる。

 

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そんな感じで、

 

徹底的に内側だけに特化した

 

毎日を送っているボクである。

 

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神を望む

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最近、思う。

 

全ての〝望み〟って結局、

 

神を望んでいるのではないか、と…。

 

 

また、

 

あそこのカフェで、白ワイン&読書したい、

 

刈り上げにラインを二本入れたい、

 

こんな恋人と出会ってこんな生活をしたい、

 

といった望みと、

 

永遠に父が待つ故郷へ帰りたい、

 

という〝望み〟は同じものなのではないか、

 

とも思う。

 

 

というのも、

 

こんな恋人がいればいいな、と想像して、

 

ウキウキしている時の歓びの感じや、

 

雰囲気のいいカフェでワインを飲んでいる時

 

に感じる何とも言えない安らいだ感覚は、

 

神を感じて歓んでいる時の感覚と同じだ、

 

と、気づいたのだ。

 

 

その望みが叶うかどうかはさて置き、

 

こうなったらいいな、あそこへ行ってみたいな、

 

こんな家で暮らせたら楽しいだろうなあ、

 

という望みが出て来た際に感じる、

 

うれしさがほとばしるような感覚は、

 

やはり神の愛に属するものだ。

 

 

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よく、外の現実をよくしようとするのは自我だ、

 

と、いろいろなスピで言われたりするが、

 

純粋に何かを望んだ時に感じる歓びの気持ち

 

だけにフォーカスするならば、

 

それは決して自我ではない、と断言できる。

 

 

逆に、

 

その望みを叶えようと、頭で方策を巡らせたり、

 

こんなこともあるし、あんなこともあるから、

 

自分にはやっぱり無理だ、といった

 

〝望んだ後に出てくる否定〟こそが

 

自我なのではないかと思う。

 

なぜなら、望みを持った自分に

 

罪悪感を感じて否定することは、

 

神の力を否定するのと同じだからだ。

 

 

なので、いろんなことを欲していいのだと思う。

 

行動に移したければ、そうすればいいし、

 

心の中だけでニヤニヤしていたければ、

 

それだけでも充分、神の想いを感じている。

 

そして、その歓びの想いはやがて、

 

背後に広がるひとつの全体を通って、

 

スクリーンの裏側から滲みだしてくる。

 

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