香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛に変わる自我

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こんなことを書くと、

 

正統派コース兄弟の方々から、

 

大バッシングを受けてしまいそうなのだが、

 

僕は自我と聖霊って同じものだ、と感じている。

 

 

自我と聖霊、という、

 

相反する二つのものがあるのではなく、

 

自分が神(愛)を選ぶことで、

 

本来自我のように見えていたものが、

 

聖霊として顕現してくる。

 

 

これまで自分の中で、

 

愛を求めて叫んでいた自我が、

 

内側の愛に気づき、愛が満たされるにつれ、

 

愛そのものである聖霊へと還ってゆく。

 

その際、まるで自我が消滅して、

 

かわりに聖霊が姿を現したように見えるが、

 

愛を求めて叫んでいる姿も愛だった、

 

と理解が進んでくると、自我と聖霊は同じ愛で、

 

ひとつのものの別の側面に過ぎない、

 

ということが分かってきた。

 

そして、最後に自分の全ては聖霊へと収斂され

 

歓んで神の一歩を受け入れて消えてゆくのだ。

 

 

なぜ、この境地に至ったかというと、

 

今、この瞬間に在る神への抵抗をやめ、

 

無限の全体側に在る神の想い(愛の流れ)を

 

受け入れてゆくに従い、

 

これまで、愛を求めて泣き叫んでいた自我が、

 

愛そのものとして見えだした。

 

その瞬間、もはやそれは自我ではない、となり、

 

聖霊兄貴やん、となった。

 

 

これはあくまで、僕の体験に基づいているので、

 

権威ある人の言っていることと違うかもしれない。

 

ただ、何を言いたかったか、というと、

 

自分の心の内側に訊いて、

 

内なる声の方が正しいのではないか、

 

と思えたことは、誰が何と言おうとそっちが正しい

 

ということだ。

 

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というわけで、今日は土曜日、完全お籠りだっ!

 

まる一日、小説を書いて過ごした。

 

こんなの誰が読むんだ、というエロい小説。

 

いまはもう、本にして多くの人に読んでもらおう、

 

というより、書いていて楽しいーっ、という、

 

ハートの悦びを感じているだけでエクスタシーだ。

 

吉本新喜劇を見ながら昼食を取る。

 

水餃子とチャーシュー、夜はお弁当を取った。

 

こうして、ゆるゆると一日が過ぎてゆく。

 

ああ、極楽、極楽~っ!

 

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優しい赦し

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⇑ 僕の冷蔵庫の中。

   お酒をあまり飲まなくなったので、

   ワインが溜まっている。 

 

今の僕の〝赦し〟について書いてみたいと思う。

 

今、この瞬間に在る神に抵抗せず、

 

自分が完ぺきな愛そのものだと気づいていても、

 

有限である肉体の自己へ、さっ、と戻った瞬間、

 

無意識の罪悪感がわっと出てきたり、

 

言いようのない不安や恐怖に襲われたりする。

 

 

そんな時、僕の場合、

 

有限の小さな自己が体験していることを、

 

押しやったり、軽んじたりせず、

 

先ずはそういった感情もすごく大事にしている。

 

思い切り〝頭の中で〟、不安がり、怖がり、

 

怒り、恨み切ったあとで、

 

分離意識から来るその苦しみは苦しみのまま、

 

背後の無限の全体へ戻ってゆく。

 

すると、

 

何て言うのか、これらの分離の苦しみは、

 

自分のものではなかった、故に真実ではなかった

 

形を変えた愛そのものだったことが思い出され、

 

最終的には、わわわ、と愛に変換されてゆく。

 

 

何がきっかけで、

 

いつからそうなったのかは覚えていないのだが、

 

背後と前方を行ったり来たりしながら、徹底的に、

 

〝神を感じようとする意識〟で過ごしていると、

 

いつの間にか、神の安堵感が戻ってきて、

 

見えている全てに

 

神の意識が充満しているように感じられ、

 

世界が愛で輝いて見えだした。

 

そうして最後は、

 

〝神の感じ〟に包まれたのを確認して、

 

僕の赦しは完了、となる。

 

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自分は天国に帰りたくないと思っている、

 

神から分離したと思い込んで神に抵抗している、

 

しかし、それは起こっていなかった、

 

そのことを、聖霊に教えてもらおう、という、

 

正統派コースの赦しとは大分かけ離れているが、

 

僕の場合、

 

そもそも真の自分は愛そのものであり、

 

神と同じ存在であることが、

 

明確に、体感として思い出せているので、

 

自我にフォーカスするより、

 

直接神を感じている方がてっとり早かった。

 

 

いや、最初のうちは、

 

すでにゆるぎない神の愛を感じながらも、

 

「いや、そんなはずはない。

 

 神を裏切った巨大な罪悪感が、

 

 そうやすやすと無くなるわけがない。

 

 これは自我の魔術だ。騙されるな!」

 

と警戒していた。(今思えばウケる!笑)

 

しかし、ある時、

 

この警戒こそが抵抗だった、と気づいた。

 

なぜなら、

 

そのときに感じている神の想いの感覚が、

 

あまりにリアルで圧倒的過ぎて、

 

これに抵抗したり、これから逃げるなんて、

 

ああ、もう無理無理、絶対に無理、と、

 

ソッコーでカンネンしてしまった。

 

 

これはあくまで僕の場合なので、

 

参考程度に聞いていただければと思うが、

 

ひとつ、絶対に正しいと言えることは、

 

赦しは決して苦しいものではないということだ。

 

なので、赦していて苦しいと感じていたら、

 

逆に、なんかおかしい、と思った方がいい。

 

僕の赦しの過程(神へ戻る過程)に於いて、

 

神も、聖霊も、兄弟も、

 

みんな優しく、愛に満ちた存在だった。

 

だから、

 

兄貴が寄り添ってくれる赦しが苦しい(辛い)

 

なんて、僕にはあり得ない。

 

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ただ、誤解を避けるために言明するならば、

 

まだ背後に無限の全体(神/無条件の愛)を

 

リアルに感じられていないうちは、

 

このブログを書き始めた頃の僕のように、

 

徹底して明け渡す赦しをしてもいいのかも…。

 

 

以前の僕は、大いなる神の愛の流れを、

 

巨大な罪悪感や恐怖の流れだと思っていた。

 

神の愛の流れを、自我の向かい風だと勘違いして、

 

本当は神の愛の流れに抵抗しているのに、

 

自我の向かい風の中を神に向って進んでいる、

 

と、必死のパッチで実践していた。

 

いまはもう、

 

その向かい風こそがハートの愛の激流だった、

 

と解かっている。

 

そして、その理解の中に〝神は在る〟のだ。

 

 

リラックスと赦し

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☝これで一本筋の通った男だと

 思ってもらえるか? 

 

 

今日は仕事終わりに髪を切りに行った。

 

もう、二カ月近く散髪をしていなかったので、

 

ま、いっか、とそのままにしていたら、

 

前髪が聖子ちゃんカットみたいになってきて、

 

同僚の日本人からも、

 

年取った〝ひかる一平〟みたいだと言われた。

 

で、今日、担当のスタイリストさんから、

 

上部の髪はこのまま伸ばし続け、

 

来月のクリスマス辺りにパーマをかけて、

 

アッシュ系に染めましょう、と提案された。

 

それ、乗った!

 

新年だし、風の時代だし、髪もまだあるし…。

 

帰りしな、来月19日の予約も入れた。

 

パーマなんて本当に何年ぶりだろう。

 

高校生の頃にパンチパーマをかけて以来だよう。

 

また、ここで写真をアップするので乞うご期待!

 

 

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話は変わり、赦しとは究極のリラックスである、

 

と思う今日この頃である。

 

 

よく、赦しにおいて、兄弟を裁かずに見る、とか、

 

神以外の解釈だけが問題だった、とか、

 

判断せずにただ見過ごす、と言ったりするが、

 

よく考えてみると、

 

判断しないでいようと思った時点で、

 

判断しない、ということを判断しているわけで、

 

いったいどういうこと?

 

と、ひとりナゾに思っていた。

 

 

それである時、兄弟を裁かず、現実を解釈せず、

 

物事を判断しないってどういうときなんだろう、

 

すなわち、赦せている状態って、

 

どういう感じの時なんだろう、と考えてみたら、

 

あれ、ひょっとしてこれって、

 

究極のリラックス状態にある時なんじゃないか、

 

と閃いたのだ。

 

 

夕食後の満腹状態でベッドに大の字になり、

 

「ああ、極楽、極楽~!」とやっている時、

 

マッサージをしてもらいながら、

 

「ああ、気持ちいい~!」と至福を味わっている時

 

大好きな人と一緒にいて、

 

「ああ、しあわせ~!」と安らぎを感じている時、

 

僕たちは、

 

心からリラックスしていて、全てを赦せている。

 

また、その瞬間、判断している自分はおらず、

 

〝愛〟という神の解釈の中だけにまどろんでいる。

 

 

ご飯を食べて満腹だから極楽、とか、

 

マッサージをしてもらっているから気持ちいい、

 

ではなく、そのくつろいだリラックスの感じだけに

 

焦点を当てていると無限の全体が感じられる。

 

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こんな風に、最初は、

 

自分をリラックスさせる何かをきっかけにして、

 

神の中へ入って行けばいいと思うのだ。

 

「ああ、リラックスリラックス、ぷっはーっ」

 

とやっているうち、

 

赦せている側がメインになってきて、

 

赦しどころ、な場面が来ても、

 

この〝優しい愛の感じ〟に戻ればいいんだ、

 

と解かる。

 

 

苦しみながら、

 

修業のように実践する赦しなどあり得ない、

 

と僕は思っている。

 

なぜなら、神や聖霊兄貴は愛に満ちており、

 

故に、故郷へ戻ってゆくための赦しが、

 

優しいものであるのは当然だと思うから…。

 

 

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