香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

教えが変わる教師(2015年アーカイブ)

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このブログも最終章に近づいてきた、ということで、

 

過去に下書きを書いて、ずっと保留にしていた記事を、

 

この際なので、アップすることにした。

 

下記の文章は2015年当時に書かれたもので、

 

過激な文章使いから、かなり尖がっていたのが解かる。

 

しかし、当時の自分を尊重し、一切修正を加えずに

 

原文ママで掲載することにした。

 

一体何をそんなに怒っているんだという感じだが、

 

その時代時代を一生懸命赦していた自分に出会え、

 

なんだか、とても愛おしく思える。

 

過激な表現も含まれますがご容赦願います。

 

では、どうぞ。

 

 

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(以下の文章は2015年当時のものです)

 

スピビジネスという言葉を好きになれない。

 

いまは、ビジネスとしてスピを教えた方が、

 

教える方もスピでお金が得られてハッピーだし、

 

学ぶ方も、これがだめならあっち、と、割り切って

 

〝スピはしご〟ができるので効率が良い。

 

 

ただ、自分の気付きの度合いによって、

 

定期的に教えることが変わる教師には注意が必要だ。

 

また、決してそういった教師にお金を払ってはならない。

 

 

これまで言ってきたことが真実だと思っていたけれど、

 

気づきが起きて、そうではないことが分かりました、

 

なので、これからは、新たにこういうことを教えます、

 

と、自分がまだ気づきのプロセスにいるにも関わらず、

 

有料で誰かを導こうとするのは欺瞞だ、と断言できる。

 

そういった教師は、自分が気づくために教えている。

 

また、自分の学びを進めたいがために教えている。

 

だが、本人はその自我のトリックに全く気づいていない。

 

 

 

例えば、

 

関野あやこさんや、エッグタルトや、大和田菜穂さん、

 

また、奇跡講座で言えば、

 

ワプニック氏や、デイビッドや、ゲイリーなどは、

 

その〝教え〟の正当性は別にして、終始一貫、

 

同じことを言っており、ブレることがない。

 

そういう教師は、有料で教える資格があると思うのだ。

 

なぜなら、彼らは、

 

自分が体験した真理に絶対的な確かさを持っているので

 

以前はゲイリーの言っている事が正しいと思っていたが

 

今はワプニック氏の方が正しいと分かったので、

 

今後はそちらを教えてゆきます、料金はいくらです、

 

という風にはならない。

 

要するに、どんなスピを教えるにせよ、

 

気づきの度合いによって教える内容が変わる教師は、

 

なんといってもまだ気づいている途中なので(笑)、

 

教師としての準備が整っていない、と言える。

 

 

どうして、お金を取る、という部分を強調するかというと、

 

たとえ、ここが幻想の世界であるとは言え、

 

みんな、大変な思いをしてお金を得ているからだ。

 

だからこそ安易に、

 

奇跡講座をはじめとするスピリチュアルを、

 

生活の糧を得るための手段にするべきではない、

 

と思ってしまうのだ。

 

 

職業スピ教師にとってみれば、

 

生徒が依存し続けてくれなければ、

 

ビジネスが成り立たないわけなのだから、

 

その様な教師に限って一緒に学んでいきましょうと言う。

 

しかし、自分達は同等であり、一緒に学ぶ兄弟だ、

 

というのであれば、お金を取る意味はどこにもなく、

 

お金を払う必要だってどこにもない。

 

しかも、これらの過程を全て無意識に行なっているので、

 

ある意味、オレオレ詐欺よりたちが悪いかもしれない。

 

 

Jが一時間5000円で何かを教えるだろうか。

 

ブッタが1万円で座禅の仕方を伝授するのか。

 

 

なので、学ぶ側もお金を払うのであれば、

 

揺るぎない姿勢でいる教師を選ぶべきである。

 

そして、ただ悩みを聞いて欲しいのであれば、

 

占いに行くべきだ。

 

 

真の教師は、生徒を独り立ちさせるために教える。

 

自分と全く同じ存在にするためだけに教えている。

 

「いつまで、自分を頼っているんだ。」 と…。

 

 

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神の教師は、リトリートやセミナーを開かなくても、

 

ただ神の中で歓んでいるだけで周囲に教えている。

 

なぜなら、僕たちはひとつの意識なので、

 

外側で何かを教えようとしなくても、

 

自分の内面が神の歓びに満たされているだけで、

 

それが救済になり、教えていることになる。

 

そういう人は、スピで稼がなくても、

 

他の何かによって金銭的に豊かにならざるを得ない。

 

そういう意味で、今後は講義をするという形式は、

 

時代遅れな手段となってゆくのかもしれない。

 

 

お金は、別にスピでなくても入ってくるし、

 

それによくよく考えてみると、

 

次から次へと新しいスピが生まれる夢の世界に於いて、

 

一生〝このスピ〟だけで食べていける保証などない。

 

ましてや、奇跡講座で暮らしていくのは至難の技だろう。

 

なので、人それぞれの見解はあるにせよ、

 

奇跡講座を食いぶちにするのは賢明ではないといえる。

 

 

ただ神のように歓んでいるだけ、愛しているよ、を

 

全身で放っているだけでもう、

 

講義などしなくても、その人は神の使者なのだから…。

 

 

スピだけに没頭して生きていきたい、

 

なので、スピでお金をもらわないと生活が成り立たない、

 

というその思い込みこそが手放すべきものである。

 

 

その時の今

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自分を大切にする、自分に優しくするって、

 

具体的にどうすればいいのだろう、と考えた時、

 

僕だったら、今よりも気が楽になることをする、

 

または、気が楽になる考え方をする。

 

 

例えば、

 

僕は来週から新しい会社に転職をするが、

 

いくら自分で決めたこととはいえ、やはり、

 

初めての職場というのは、緊張もするし、

 

同僚とうまくやっていけるか、と不安にもなる。

 

しかし僕は、もし新しい職場で、

 

少しでも嫌な思いをしたら、すぐに辞めて、

 

日本へ帰ってやろう、と今から決めている。

 

ちょっとでもなんか言われたら、じゃあ辞めます、

 

みたいな…。

 

 

もちろん、僕も礼儀正しく接するし、

 

何かあったからと言って、必ず辞める訳ではない。

 

どうするかは、その時の今、決めればいいことだ。

 

ただ、嫌ならすぐに辞めればいい、と思えることで、

 

少し気が楽になり、リラックスできる。

 

それが僕の、

 

自分に優しくする具体的なやり方である。

 

 

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もうひとつ例を挙げると、

 

誰かの言動にムカついて仕方がないのであれば

 

山の中とか、カラオケボックスとか、車の中とかで、

 

アホ、ボケ、ふざけんな、この野郎―っ、と、

 

気の済むまで思い切り叫ばせてやる。

 

そうすることで少しだけ自分に力強さが戻ってくる。

 

罪悪感なんて上がってこないから大丈夫。

 

ていうか、ムカつくという感情の元ネタは愛だから、

 

きちんと認め、感じてやることで、

 

愛を求める叫びが、本来の愛へと姿を変えるのだ。

 

 

また、

 

人の話を全く聞かない人に〝うざっ〟と思ったら、

 

それは、自分の心の叫び(本音)を無視して、

 

他人の言う事ばかりに耳を傾けている自分の姿を、

 

その人に投影して、うざっ、と思っている。

 

 

そうやって自分を大切にしてやることで、

 

自分に力が戻ってゆき、やがては、

 

きちんと自分の思いを、

 

相手に伝えることができるようになる。

 

 

 

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自分を大切にする、自分を守る、というのは、

 

物理的な行動ではなく、頭の中のことであり、

 

背後の自分とどう接するか、なのだ。

 

 

今際の際

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👆 習慣化している、仕事で外出したついでのQB

  この日も両サイドだけカットしてもらう

 

 

今際の際(いまわのきわ)について考えている。

 

 

というのも、昨日の午後、妹からLINEで、

 

うちの85歳になる父が、コロナのワクチンを接種

 

した帰りに、脳出血で倒れ、これから緊急手術だ、

 

というメッセージを受け取った。

 

慌てて妹に電話をかけると、

 

左脳一面に出血が広がっており、手術の後、

 

これから一晩かけて頭から血を抜くのだという。

 

ワクチンの副作用も疑われたけれど、先生曰く、

 

ワクチンを打ってすぐに出血することはなく、

 

たぶん、一か月ほど前にどこかで頭を打ち、

 

そこから少しづつ出血し続けていたのだろう、

 

ということだった。いまは、手術も済み、

 

ICUで血を抜いている最中だが、コロナ対策で、

 

親族でも病院の中には入れてもらえず、

 

面会もできないということだった。

 

いま、大阪府は病院もぎりぎりで稼働しており、

 

救急車が来た時も、あちこち電話をしても、

 

なかなか受け入れてもらえる病院がなく、

 

最後に父の主治医の病院に連絡をし、

 

無理を言ってやっと受け入れて貰えたのだという。

 

 

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僕は外国にいるので、父にもしもの事があっても

 

たぶん、死に目には会えないだろう。

 

まあ、彼の85歳という年齢もあり、

 

「仕方がない」と諦める覚悟もできている。

 

だが、父の側の立場に立った場合、

 

「最後に周作の顔を一目見てから逝きたかったな」

 

と、ひょっとしたら死の間際に思うかもしれない。

 

そして、そんな〝想い〟を、

 

たとえチラッとでも抱かせたまま逝かせるのは、

 

息子としてどうなんだろう、と考えてしまうのだ。

 

 

👇 期間定公開。父のダンス!

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そういう意味で、臨終というのは、

 

旅立つ本人が、生前の想いを手放すために、

 

残った者が最後の最後に用意してあげられる、

 

大切なイベントなのかもしれない。

 

なので、生前本人が愛した人だけではなく、

 

憎んだ人、赦せなかった人、気にかかっている人

 

も、共に立ち合い、看取るべきなのではないか、

 

と思ったりする。

 

 

そして僕の今際の際が、

 

〝有難う、大好き〟だけだったらいいな、と思う。

 

 

というわけで、

 

いろいろ考えさせられた土曜の午後であった。