香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

気づいているわたし

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先週の金曜に、銀行のトークンや会社の印鑑、

 

登記簿などをEMSで日本本社へ送付し、

 

一応この会社での全ての業務を完了した。

 

なので、今週はもう出社する必要はなく、毎日、

 

ジムで自主トレをしたり、マッサージに行ったり、

 

カフェで小説を書いたり、瞑想をしたり、

 

買い物がてら街をぶらぶらして過ごしている。

 

 

今に気づきながら街を歩く。

 

G2000に夏のワイシャツが並んでいる。

 

今のワイシャツはもう2年くらい着ているので、

 

新しい会社には新しいワイシャツで、と、

 

何枚か選んで試着してみた。

 

以前はパンパンではち切れそうだった14インチが

 

今ではぶかぶかとなり、結局13インチを買った。

 

 

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自分に気づきながら歩く。

 

家の近くに新しいカフェを見つけてランチをする。

 

こじんまりとしたカフェで、雰囲気も良く、

 

ランチもおいしかった。

 

今の自分に気づきながら神を思い切り味わった。

 

 

今この瞬間、

 

道ですれ違う人の奥に在る神に気づいている。

 

今この瞬間、

 

様々な想いを感じている自分に気づいている。

 

今この瞬間、

 

神が歓んでいる様に気づいている。

 

もうそれだけでOKであり、他には何も必要ない。

 

 

今ではほとんど皆無となってしまったが、

 

たとえ、誰かに攻撃されても、ウザっと思っても、

 

仕事でイライラとテンパっていても、

 

やっぱりそれも神の愛であり、

 

そこには歓びと愛おしさしかないのであった。

 

 

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お金が欲しいと思うのも、結婚したいと思うのも、

 

事業に成功したいと思うのも、健康でありたいのも

 

また逆に、

 

拗ねたり、無視したり、攻撃したりするのも、

 

全てはこの〝神の歓びの感じ〟が欲しいからだ。

 

 

結局僕たちは、神しか欲しておらず、またそれは、

 

何もしなくても、すでにここに在る。

 

👇 久々に新しました

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神を望む

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昨日は、友人が高級ディナーに招待してくれた。

 

今回の僕の転職を祝って、グランドハイアットの

 

高級イタリア料理店を予約してくれたのだ。

 

ビクトリア湾と九龍半島が一望できるテーブルで

 

白ワインを飲みながらコース料理をいただく。

 

先日、大家さんと沖縄料理店で飲んだ時同様、

 

友人も僕の転職を心から喜んでくれた。

 

 

今、この瞬間に顕れている神に気づきながら、

 

今、この瞬間に顕れている豊かさに許可を出す。

 

 

夕闇に煙る香港のビル群、海を行く帆船、

 

美味しい料理にスマートな給仕、ピアノの生演奏、

 

最高の〝いま〟に感謝をしつつ、神を感じていた。

 

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自分を全肯定できるようになってから、

 

様々な小さな願望が叶い始めた。

 

あと一年ほど香港にいたいなあ、と思えば、

 

ちょうど、自分にピッタリな仕事が見つかり、

 

でも今のアパートに住み続けるには給料が…、

 

と思えば、

 

家賃を払えるだけの給料を貰えるようになったり

 

台湾で小説を出版したいなあ、と思ったら、

 

居酒屋で隣にいた人が出版社の人だった、

 

という感じで、思ったことが次々と、

 

現実のスクリーンへ映し出されるようになった。

 

最近では、たぶん、これ、叶うだろうなあ、という、

 

根拠のない自信のようなものまで出てくる始末だ。

 

 

そうやって、こうなったらいいなあ、と、なんとなく

 

心で受け入れた小さな願望が現実になる、

 

という経験を重ねるにつれ、次第に、

 

願いが叶うコツのようなものがわかってきた。

 

 

僕の場合、給料これくらいほしいなあ、と、

 

なんとなく思いながらぼーっとしていると、突然、

 

みぞおちの辺りにウキっとするような感覚が走り

 

その感覚を感じたら、はい、この願いは完了っ、

 

という感じで納得し、安心してあとは忘れてしまう。

 

僕の場合、願いが叶った時の状況をイメージして、

 

その時の感覚を感じて、みたいなのは一切ない。

 

ただなんとなく、こうだったらいいなあ、と想像して

 

みぞおちがウキっ、となるためだけにやっていて、

 

神の感じを感じることでもう完了している。

 

叶おうが叶うまいが、そんなのどうでもいいのだ。

 

 

これって、オナニーと同じだ、と書いてて思った。

 

色んなことを想像しながらマスタベーションするが

 

それはオーガズムへ至るための行為であり、

 

高みに達したらはい完了、別に、想像したことが

 

現実になりますように、とは思わない。

 

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僕の体験から言えるのは、望みを叶えたければ、

 

歌手になってステージに立っている、とか、

 

すごいお金持ちの恋人ゲット、というような、

 

いきなり、ど真ん中の大きな望みではなく、

 

お気に入りの行きつけの店を見つけたいなあ、

 

自分が満足できる髪型にしたいなあ、

 

こんな感じの仕事の助っ人がほしいなあ、

 

といった、小さな望みから始めたほうがいい。

 

そうやって、自分なりの、望みが意識に渡った

 

際に感じる感覚のコツをつかんでゆくのだ。

 

 

というわけで、今日は赦しとは全く関係のない、

 

バリバリ引き寄せ談議であった。

 

 

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真の教師(2016年アーカイブ)

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過去の下書き大放出第二弾、である。

 

今回は、2016年当時の記事である。

 

もう、誰の事なのかは思い出せないのだが、

 

多分、誰か特定のスピ教師に反感を抱き、

 

こういう記事を書いたように見て取れる。

 

本当に、当時の事を全く覚えていないが、

 

その時代の自分を尊重し、

 

修正なしの原文ママで掲載することにした。

 

 

では、どうぞ!

 

 

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この世界は、はなから始まってもなく、神だけが実存で、

 

常に神の中で歓んでいるから、と言って、

 

夢の世界の常識を無視してよい、というわけではない。

 

迷惑を顧みず、これは違う、と、突然仕事を辞めたり、

 

これは自我だから、と、社会的責任を果たさなかったり、

 

それは実存しない、という名目のもと、社会を避けたり、

 

といった行為は、逆に世界を実在させていると言える。

 

 

要するに、たとえ、悟ろうが、神の教師であろうが、

 

夢の世界にいる間は普通にしましょう、ということである。

 

人とは普通に会話をし、税金は普通に払い、

 

普通に働いて、稼いだお金で日々生活をする。

 

コースを教えることだけで食べて行きたいのであれば、

 

自分でマネージメントして発信すればいいだけであり、

 

コミュニティを運営したり、信奉者を傍に置く必要はない。

 

 

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真の教師であれば、

 

導こう、としているその小さな判断に気づき、赦すだろう。

 

導けるのは聖霊だけであって、教師自身ではない。

 

純粋にコースを生きていきたい、という思いから、

 

それは違う、という解釈で兄弟を不安な思いにさせたり、

 

様々な要求をコース兄弟に求めることは自我である。

 

誰かの犠牲や負担の上に実現するコミュニティなど、

 

〝真の〟神の教師には、あり得ないことだ。

 

それでも、誰かの行為に甘え、お世話になったのなら、

 

その人に対して〝普通に〟気遣いをするべきだし、

 

心からの敬意と感謝を行動や言葉で表現すべきである。

 

だって、いくら優れた悟っているマスターだと言ったって、

 

まだ、肉体を持ち、この世間で生活しているのだから…。

 

要するに、普通の人と同じなのだ。

 

 

自我はどこまでも利用する。

 

それがコースであっても、何であっても、だ。