香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

鍵のない檻

 

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少し前の記事でも書いたが、

 

僕が今、何よりも一番に望んでいることは、

 

〝十分な経済的豊かさがあり、

 

  何の制限も受けることなく、悠々自適に、

 

  起きたいときに起き、寝たいときに寝て,

 

  全ての時間を自分の為だけに使って生きる〟

 

である。

 

しかし、我に返ってよく考えてみると、

 

僕が会社勤めを手放さない限り、

 

上記の望みは絶対に叶えられないことが解かる。

 

つまり、いま、僕は、望みと全く違うことを、

 

自らやっていることになる。

 

そこで、週末のある夜、一度、自分の本音と、

 

とことん向き合ってみることにした。

 

 

僕の本音はこうだ。

 

何の制限も受けることなく、悠々自適に、

 

起きたいときに起き、寝たいときに寝て、

 

全ての時間を自分の為だけに使って生きるには、

 

先ず、何より、会社に勤めていてはダメなのだが、

 

今の自分にはまだ、

 

十分な経済的豊かさがないので、

 

仕方なく会社勤めを続けなければならない、

 

と思いこんでいる。

 

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で、次に気づいたのは、

 

いまの自分には、ある程度の貯金もあるし、

 

失業しても月40万円ほどの失業手当がもらえる。

 

それに、養わねばならない家族がいるわけでもなく、

 

今、全ての時間を、自分のために充てたとしても、

 

なんら差支えはないはずだ。

 

つまり、悠々自適に暮らそうと思えば、

 

明日にも叶えることができる、という事実である。

 

  

なのに、

 

実際にはどうして会社を手放せないかと言うと、

 

今ある経済的な豊かさは、今だけのもので、

 

将来目減りして無くなってゆく可能性があるので

 

今はまだ会社を辞めるわけにはいかない、

 

とかたくなに思い込んでいる。

 

別の言い方をすれば、

 

自分が収入を得る手段は会社勤めしかないため、

 

その会社を辞めると、将来お金に困る、という、

 

勝手な強迫観念を持っている。

 

そして、この思い込みこそが〝檻〟なのだった。

 

  

だが、もっと本音を掘り下げてゆくと、

 

何の保証もなく会社を辞めるのは怖すぎるので、

 

何か魔法のような素敵な出来事が起こり、

 

「もうこれで大丈夫」と思えるような、

 

会社勤め以上の安心が確保された上で、

 

オツトメを手放したいと思っている。

 

要するに、聖霊兄貴による奇跡のような采配で、

 

会社勤め以上の安全保証が得られることを、

 

密かに待ち望んでいるのだ。

 

しかし、当たり前のことなのだが、

 

無限の可能性を信じていない状態で、

 

そんな奇跡などおこるわけがない。

 

それに、

 

将来の為に今の豊かさを制限してしまうと、

 

たとえその〝何かよいもの〟が来たとしても、

 

やはり、それにも制限をかけてしまうと思うのだ。

 

 

「あなたは鍵の掛かっていない檻に自ら入った」

 

と、奇跡講座やその他のスピで言われたりするが

 

今回、自分の本音を掘り下げてみて、

 

この意味が本当によく理解できる。

 

そもそも檻などないのに、自ら檻を作って入り、

 

聖霊兄貴が助けに来てくれるのを待っている。

 

自ら入った檻は、自らの意思で出なければならない。

 

 

僕もついに本当の意味で、

 

会社員という檻から出る時が来ている。

 

(遅いわ、もう定年やろ、というツッコミは却下!)

 

 

愛されたかった

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相手から理不尽な要求をされたとき、

 

誰かから愛のない言葉を投げかけられたとき、

 

ある人に対してものすごい怒りを感じたとき、

 

大概のコース教師は、それは真実ではない、

 

神を思い出せ、神の方へ方向転換せよ、と言う。

 

しかし、

 

「そうだ。これは幻想なんだ。神しかないんだ。

 

背後の無限の全体にアクセースっ!」

 

で、神へと戻っていける人はそうそういない。

 

学習会やリトリートでも、コースの解釈は教えても

 

体感を伴った実践について語る教師は少ない。

 

世界はないのだから、ない世界のことを語るのは

 

自我だ、と言う人もいる。

 

 

じゃあ、自分でやるしかない、と、

 

職場や、家庭などの日常生活に於いて、

 

ムカつく、モヤモヤ、悲しいが湧き上がってきた時

 

現実的に、具体的に、どうすればいいのか、と、

 

自分で色々実践してみた結果、分かったのは、

 

心の中から湧き出した、怒り、不安、悲しみも、

 

愛に裏返して観れば愛だった、という事実だった。

 

 

上司からネチッとダメ出しされた→怖い/無力感

 

→ 本当は大切に扱われたかっただけなのに…

 

→ じゃあまずは自分で自分を大切にしてやろう

 

→ 怖い、悲しい自分をちゃんと受容してやろう

 

 

パートナーからさらっと否定された→怒り/殺意

 

→ ただYESと受け容れてほしかっただけなのに

 

→ まず自分で自分を全肯定で受け入れてやろう

 

→ そんなことないよ、と次は一言言ってみよう

 

 

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 👆 先日行ったモロッコバーの美人店員さん

 

 

傷ついたり、ムカついたり、悲しんだり、

 

様々なネガティブな感情が出てきた時、

 

それって裏を返せば、本当は愛されたいんだ、

 

という感情の裏返しであり、

 

それも愛の別の側面なのだから、

 

僕の場合、

 

言い合いするときは、思い切り言い合いをするし、

 

ムカついたら、ムカつくんだけど、と相手に言うし、

 

悲しいときは悲しい、ととことん落ち込む。

 

こうやって〝愛されたいちゃん〟を、

 

ちゃんと意識しながらパフォーマンスすることで、

 

愛されたいが、くるっと、愛してるー、に反転する。

 

そして、これも、何度か(五、六回)やっていると、

 

最初から〝愛してるーっ〟しか出てこなくなる。

 

 

怒ったり、苛立ったり、不安になったりすることに、

 

ましてや、それを表に出すことに、スピ兄弟たちは

 

ものすごい罪悪感と抵抗を覚えるのだが、

 

愛されたいも愛の一部だったんだ、と

 

意識されていれば、絶対に変な風にはならない。

 

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また、

 

言い返したり、反抗したり、怒ったりすることに

 

罪悪感を覚えてしまうのも、

 

神の愛が裏返っているだけで、やはり愛である。

 

 

罪悪感をスルーして心の奥へ押し込めることは、

 

愛を押し込めてるのと同じことなのだ。

 

 

大好き一色

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いま、自分の目の前に現れ出る人たちが、

 

自分の分身そのもののように思えて面白い。

 

なんていうか、どんなキャラが出てきても、

 

だい好きーっ、となってしまう。

 

何を見ても、愛らしく、愛おしく、どこかカワイイ。

 

 

というのも、

 

僕には女の子の部下が二人いるのだが、

 

1人が財務担当の女性(40歳/独身/人見知り)

 

で、もう一人が銀行関係担当の女性

 

(30代/独身/声と体でかい)である。

 

どちらも、礼儀正しく、仕事上何ら問題はない。

 

それで昨日、

 

若いほうの部下のデスクのパーテーションの上に

 

三角卓上カレンダーが二つ並んでいるのを見て、

 

なんでこんな狭い棒状の梁の上に、

 

卓上カレンダーを二つも並べているのか、と、

 

年配のほうの部下に訊ねてみた。

 

(若いほうはこの日、有給休暇中だった)

 

 

彼女曰く、

 

斜め前の席にいる○○(おばさん/既婚/噂好き)

 

が、立ち上がるたびにこちらを覗いてくるので、

 

それを嫌って、パーテーションの上に

 

カレンダーを並べ、覗かれても見えないように

 

防御しているそうなのだ。

 

聞けば、このおばさんは噂好きで、

 

いつもズケズケモノを言うので嫌われている、

 

(あくまで僕の部下たちの言)ということだった。

 

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へえ、そうなんだあ、と、

 

今日、若いほうの彼女が出勤してきたので

 

それとなく彼女を観察していると、

 

仕事をしながら普通におばさんと談笑している。

 

 

いや、パーテーションがあるだけでも、

 

すでに充分誰からも覗かれない状態なうえに、

 

三角卓上カレンダーまでのっけて

 

顔が見えないようにするくらい嫌いなのに、

 

普段は仲良く雑談を交わしている。

 

男の僕には、もう訳が分からない。

 

 

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以前の僕なら、

 

これって自我の分離の極みだ、本当にくだらない

 

と、脱力して顔を背けていただろう。

 

しかし、こんな彼女たちの姿も、なぜか今は、

 

〝カワイイー、愛おしい、だい好きー〟

 

というふうに感じてしまう。

 

彼女たちのやっていることが、まるで、

 

自分の中の別の側面のひとつのように思え、

 

ぜんぜん嫌なものとして映らないのだ。

 

 

そこで思った。

 

兄貴の視点からは、きっと僕らはこんなふうに

 

見えているんだろうな、と…。

 

僕たちからは罪悪のように見えるものも、

 

兄貴からは愛にしか見えないのだ。

 

だから、一見罪悪のように見えるものを見て、

 

罪悪はない、それは本当ではない、ではなく、

 

それは愛だった、が本当の捉え方なのだ。

 

 

なので、彼女たちが何をやっているかは関係なく

 

自分の内側が〝愛の感じ〟で満たされることで

 

同じものが全く違うものに感じられるのだ。