香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

このバチあたりめが!

👆 台湾語の授業はマンツーマンなので

    全く気が抜けない。

 

 

以前のブログでも書いた、不動産屋の担当者が

 

追加でピックアップしてくれた物件を見るために、

 

午前中の台湾語の授業を終えてから店舗を訪ねた。

 

そしてなんと、そこで衝撃の事実を知らされた。

 

前回僕が、完ぺきに希望通りの部屋だ、と言っていた

 

家具家電付き、駅まで徒歩3分の物件が、

 

現入居者がそのまま契約更新することになったため、

 

契約はキャンセルとなりました、と告げられたのだ。

 

 

ガガーン!ヘコむ。

 

まあ、人生長く生きていると、こういう事もあるし、

 

必ずなるようになることは分かってはいるが、

 

この炎天下の中、また一から内見をして物件を決め、

 

信用審査を受け、と思っただけで脱力感が込み上げる。

 

それに、もともと今日の内見は、

 

すでに借りたい部屋は決まっているけれど、

 

ちょっと追加でほかの物件も見てみましょう、

 

という軽いノリのはずだったので、なおさらだった。

 

 

ホストっぽい担当者の彼も、たった今知ったとかで、

 

少しでも希望通りの物件をピックアップしようと、

 

パソコンを凝視しながら物件を探してくれている。

 

こんなのどうでしょう、と新たな物件を提案されるが、

 

僕はもう、完璧なものを先に知ってしまっているので、

 

どの物件もちょっと〝品下って〟見えてしまう。

 

それでも、本来見ることになっていた二件に加え、

 

更に数件の物件をピックアップしてもらい、

 

部屋の内見に行くこととなった。

 

担当者の彼が車を取りに行って戻ってくるのを、

 

店でコーヒーを飲みながら待っている間、

 

次々にへんてこりんな思いが去来するのを観ていた。

 

 

👆今日アメリカの上院議長が台湾を訪問し、

   中国が激怒している。

      僕が行くまでこのままの台湾で在りますように!

 

 

借りようとしていた完璧な物件がオジャンになったのは、

 

老齢の母を見捨てて出ていこうとした罰なのかも、とか

 

アゲておいて急にオトす、またこのパターンかよ、とか

 

感謝の気持ちが足りなかったからこうなったんだ、

 

とまあ、自分でもあきれるような理由付けが、

 

次から次へと沸き上がってくる。

 

最後〝バチが当たったんだ〟という声にハッとなった。

 

不愉快な出来事は全て何かのバチだ、と、

 

無意味に浮上してくるその声は主張している。

 

 

しかし、もう、見えているものや聞こえているもの同様

 

湧き出る想いもその在りようのままでカタがついている。

 

どんなに悟ろうが、どんな修行を積もうが、

 

目で見えてるものが、その通りに見えているのと同様、

 

こういう思いも、自分などとは関係なく、

 

その在りようの通りに顕われ、変化し、消えてゆく。

 

だから、このままでも大丈夫だ。

 

 

自分無しに、首から上が直接世界になっている。

 

 

担当者が車を取りに行って20分以上が経過した。

 

そして、やっと戻ってきた彼は興奮気味に僕に言った。

 

「もともと星谷さんが入居を決めてドタキャンになった

 

    物件の隣の部屋が急に空いたのですがどうですか、

 

 と    たったいま家主から電話がありました。

 

    同じ家主の物件なので、もちろん、家具家電も、

 

    家賃も、広さも、間取りも全く同じです。

  

    しかも、この部屋は角部屋で横にも窓があります」

 

聞けば、車を取りに行く途中で、家主から電話があり、

 

突然、その物件の住人から退居通知があったので、

 

募集をかける前に優先的に教えてくれたのだという。

 

 

担当者は、これは奇跡だ、と言って鼻息も荒い。

 

もちろん、これで進めてください、と僕はお願いした。

 

ただ、9月3日まで現入居者がいるため、

 

そこからクリーニングや補修工事を経ても、

 

部屋の明け渡しは9月16日になるということだった。

 

この9月16日という言葉を聞いたとき、

 

その時期でなければならない何かがあると直感した。

 

 

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事が上手く運んだからわーいわーい、というのではなく、

 

なんていうか、どんな心の声をも相手にせず、

 

何があっても大丈夫な自分を確認できたことが、

 

いちばんうれしかった。

 

 

というわけで、お先まっさらな毎日、続きます。

 

 

 

大いなる決断

 

 

今この瞬間は選択と決定の連続である。

 

今、左の道を行くか、右の道を行くか、

 

今、塩ラーメンを注文するか、それとも味噌ラーメンか、

 

今、これを買うか、買うまいか、または、

 

あの人と会うか会わないか、を、瞬時に決断している。

 

そして、今を信頼するとは、自分が下した、

 

これらの決断を100%信頼して肯定することである。

 

たとえ、ああシクった、と思ってもそれで100%正しい。

 

こう書くと、今この瞬間に〝在ろう〟としたり、

 

今を信頼〝しよう〟としたり、あの決断は正しかった

 

と言いきかせ〝よう〟としてしまうのだが、

 

今この瞬間に〝気づこう〟としなくても、もうすでに、

 

どんな人も今この瞬間にいて、それを信頼している。

 

ただ、普通の人(大阪のおばちゃん)との違いは、

 

今を信頼することの本質を智っているか否かにある。

 

 

こうして、

 

直接の在りようのまま〝何もせずに〟(👈ここ重要!)

 

今この瞬間を力強く決断している人は、

 

すでに赦され切った平安(神)のなかにいる。

 

 

じゃあ、直接の在りようのまま〝何もせずに〟って、

 

いったいどういうこっちゃねん、という話になるのだが、

 

それは、何かを決断する際、ベタな言い方をすると、

 

〝まあいっか〟をやめ〝大好き〟で選ぶことである。

 

 

実践レベルで見てゆくと、友人数人とカフェへ行き、

 

一個300円のケーキと500円のケーキがあるとして、

 

自分は500円の方をすっごく食べたいのだが、

 

値段も高いし、みんな300円の方を頼んでいるし、

 

まあいっか、と、300円の方を選んでしまう。

 

またその逆もしかりで、見栄や体裁で、

 

高い方を選択する人もいる(👈それ僕かも…)。

 

そうではなく、その時、どっちの方が〝大好き〟かを、

 

条件からではなく、本音の気持ちで選ぶ。

 

お金が無かったら、300円の方を選びながらも、

 

自分の本音は500円の方が大好き、

 

と認識をした上で、

 

「今は持ち合わせがないので私は300円の方を選ぶ」

 

と力強く決断してやるのだ。

 

このように、今この瞬間を信頼するとは、

 

自分を信頼することであり、本質に委ねることでもある。

 

最初は少々面倒だが、慣れれば、

 

大阪のおばちゃんのように、

 

大好きな感覚だけで決断してゆけるようになる。

 

 

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僕も、12年間勤めた会社を辞めて転職する際、

 

転職せずに今の会社に残って日本へ帰任するか、

 

転職して引き続き香港にしばらく留まるか、

 

で相当悩んだ。

 

最終的に後者を選んだわけだが、

 

正直、あの判断はシクったかも、と思う時もあった。

 

だが今は、やはりその判断が正しかったと確信できる。

 

もし、過去の自分の判断が間違っていた、と思うなら、

 

それは、今自分の周囲にいる人や物や環境、

 

そして自分さえもを否定していることになる。

 

なぜなら、今出会っている人、今ここにある物、

 

今の状況は、過去の自分がそう決断したから

 

今ここに現れているものだからである。

 

 

なので、

 

今の自分の周囲にいる人や物や事を受け入れ、

 

感謝を送り、愛として見るには、まず、

 

過去の自分の判断を全肯定することからである。

 

檻と保険

 

 

もういい加減、うんざりしているにもかかわらず、

 

それは今の自分にとって都合の良い環境であり、

 

なんとかそれらの環境は手放さずに、

 

密かに望んでいる本当の願望を現実させたい、

 

と思ったことはないだろうか。

 

僕はある。何度もある。しかし、それは成功しなかった。

 

 

例えば、俳優として成功したい公務員の人がいたとして、

 

安定した公務員の職はそのままで、先ずは劇団に入り、

 

あわよくば俳優としてもブレイクしようと思っていたり、

 

会社に勤めつつ売れっ子作家になりたい(👈僕)

 

と望んでいたり、など、要は、夢が叶い、

 

これで絶対やっていけるという保証を得た時点で、

 

公務員や会社員という保険を捨てようと目論んでいる。

 

いわば、本当にやりたいことを新たな保険とし、

 

それが、絶対大丈夫な保険であると確信できたら、

 

古い保険を解約してもよい、と考えているのだ。

 

しかし、大抵はそう上手くはいかない。

 

なぜなら、命綱をしっかり握って離さない時点で、

 

他の可能性を信じていないことになるからだ。

 

不安と恐怖から保険を手放させない、

 

この信念こそが〝自ら作った檻〟の本質である。

 

 

そして、檻から出ようと決心した時、必ずや、

 

保険を手放した時の不安や恐怖と対峙することとなる。

 

また、この怖さに耐えきれなくなり、

 

〝別に今でなくてもいっか〟と先送りしてしまう。

 

このことを〝今から逃げる〟といい、

 

それはまさに以前の僕だった。

 

 

聖霊兄貴は檻から出るために導いてはくれるが、

 

この不安や恐怖を消してくれるわけではない。

 

ましてや、兄貴が檻から出してくれるわけでもない。

 

檻から安全に出るためのマニュアルなんかもない。

 

ただ 「ひえぇーっ、ぐえーっ、おえっ、あびぶーぅ…」 

 

と、吐きそうになりながらのたうち回るしかないのだ。

 

 

じゃあ、

 

檻から出る、保険を手放す、ってどういうこっちゃねん、

 

という話なのだが、それは、信念を変える、ことである。

 

 

僕が、かつて信じていた信念を例に挙げれば、

 

・自分は会社員以外の職ではお金が稼げない

 

・一番よりも二番手や三番手の方が自分に合っている

 

・五十歳をすぎると、できる仕事(可能性)は限られる

 

・自分の小説は大手出版社からは出版されない

 

・プラプラしてたら金がなくなって最後は野垂れ死ぬ

 

とまあ、いまとっさに思いつくのはこんな感じか。

 

そしてこれが僕の創った〝幻想の檻〟である。

 

書いていて気付いたのだが、

 

これって大部分が、親からの刷り込みだと判った。

 

 

でも、本当にそうなんだろうか、本当に?本当に?

 

そうじゃない可能性だってあるじゃん!

 

本当はそうでないかもしれないじゃん、と兄貴は言う。

 

例えば、ZOOMでリトリートを開催したら盛況で、

 

いつしか、並木さんみたいになっちゃった(ウケる!)

 

とか、飲み屋で知り合った人が大手出版社の人で、

 

奇跡のように出版が決まった、可能性は無限にある。

 

 

そう、妄想するのはタダではないか。

 

しかし、そんな妄想をした時、

 

微かに出る〝ウキッ〟となる感覚は真実である。

 

それが神の感じであり、檻を出るためのカギである。

 

 

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と、ここまで、引き寄せっぽい方法論を述べてきたが、

 

檻を出たその先には、愛され、赦され、

 

救われきった真実が、すでにここで展開している。

 

矛盾しているが、檻を出た瞬間に、

 

出るべき檻も、檻から出るべき自分も、

 

はなから存在しなかったことを智るのである。

 

こうして最後は、

 

知ることのできないもの(実相/神)がつまびらかになる。

 

しかし、ひとっ飛びにそこへは行けない。

 

まずは〝信念を変える〟ことからはじめる。

 

だから、瞑想をしたり、奇跡講座を学んだり、

 

バシャールに耳を傾けたり、統合したりしながら、

 

一歩一歩、進んでゆくのである。