香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ゴミが捨てられない

👆 下手すぎて泣けてくる!

 

 

奇跡講座では、過去や未来に対するあれこれの想い

 

仕事での厄介ごとにたいする不安や恐怖、

 

大きなトラウマになっている癒されない感情、

 

または、今出てきている、ちょっとしたどうしよう、

 

などを、全部聖霊兄貴に捧げ切りなさいというが、

 

実際には、これらの想いは手放さずにそのままで、

 

「兄貴、どうぞここへ来て私を癒してください」

 

とやっている。

 

 

どういうことかというと、兄貴に捧げ切るというのは、

 

先ずは自ら檻を出て、

 

自分の檻の中に溜め込んだ全てのゴミを、

 

一旦、檻の外にあるゴミ置き場(祭壇)に置き、

 

それを兄貴に回収してもらうことなのに、

 

僕たちは、自分は檻から出ずに、

 

兄貴の方から檻の中へ入ってきてもらい、

 

檻の中を居心地よく変えてもらうとしている。

 

要は、環境は変えずに(檻からは出ずに)、

 

イヤな感じを(ゴミは捨てずに)、

 

イイ感じに変えて(問題を解決して)

 

もらおうと考えているのだ。

 

 

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僕も本当の意味で、兄貴に全てを捧げ切ることが

 

できるようになったのは会社を辞めてからだと思う。

 

それまでは、会社という檻の中に居座ったまま、

 

その檻の中で出てくる様々なゴミ(人間関係など)を、

 

兄貴に癒して(変えて)もらい、檻の中(会社)を、

 

動揺や葛藤のない、

 

愛の場所にしてほしい、と(無意識に)願っていた。

 

 

もちろん、〝檻〟のありようは人それぞれなので、

 

会社が〝檻〟ではない人もたくさんいるだろう。

 

仕事が大好きで、同僚が大好きで、月曜が大好きで、

 

もっともっとバリバリ活躍したい人もいるはずだ。

 

しかし、僕の場合はそうではなかった。

 

慣れている環境でもあるし、何とかやっては行けるが、

 

自分が拒否している場所(檻)を出ることなく、

 

聖霊よ、私を癒してください、とやっても、

 

居たくない場所でやりたくないことをしているので、

 

捧げても捧げても、葛藤が尽きることはない。

 

それは、

 

聖霊を自分の檻の中に引っ張り込もうとするのと同様

 

完全に無意味である。

 

 

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なんせ、僕たちはゴミを宝物だと思っていて、

 

また、こんなゴミでも、何もないよりかはマシ、

 

と思っているので、怖くて手放せないのだ。

 

ほんの少しの意欲を出して、

 

そのゴミを全部ゴミ置き場に置きさえすれば、

 

兄貴はもっとよいものを与えようとしているのに…。

 

 

会社なんて辞めちゃっても全然大丈夫だよ、

 

(あくまで僕の場合なので、よい子は真似しないでね)

 

檻なんか無いんだよ、全部こっちによこせ、

 

そこには完璧な愛と癒しが待っているよ、と兄貴は言う。

 

落ち切って、決着しきって、捧げ切っている、

 

今この瞬間の僕は、どんなことがあっても大丈夫だ。

 

 

檻の中で、聖霊に明け渡しているつもりになって過ごすか、

 

檻から出て真に捧げ切り、

 

完璧な愛と癒しをつまびらかにするか、

 

こればかりは自分で決断するしかない。

 

さあ、あなたならどうする?

 

 

捧げ切れ!

 

 

『迷路の外には何がある?』を読んでからというもの、

 

無意識の信念を変える、自己イメージを変える、

 

親や先生から刷り込まれた古い信念を手放し、

 

愛と調和に満ちた新しい信念へと変換するのだ、

 

みたいな方向へと、いつのまにか舵がブレていた。

 

 

それで、ダグラス・ハーディングの『頭のない男』を、

 

再読してみようとふと思い立ち、カフェで読み始めたら、

 

いきなり兄貴の声がバシーン、と頭の中でこだました。

 

 

「君はすでに捧げ切り、実相が明白になったのだから

 

 チマチマと信念を変えたり、解釈を捻じ曲げようとせず、

 

 過去や未来のあれこれを全部〝私〟に捧げ切って、

 

 落ち切った在りようの今を生きていればよい」

 

 

えっ?この声を聴いた瞬間、全てがまっさらになった。

 

よく、この世界は幻想です、とか、夢の映像だ、とか、

 

実相の上にエゴの概念を被せてみている、

 

などと言ったりするけれど、いやいやいや、

 

もうここにある全てが実相の活動そのものであり、

 

自分無しで、直に、そのまま、距離ゼロで開いている。

 

それは無機質なものでも、静寂なんかでもなく、

 

形容しがたい法悦の姿で満たされきっている。

 

(※本当は、このような表現さえも間違っているので、

 

  参考程度に読んでくだされば幸いです)

 

 



 

これら(実相)は、常にむき出しで顕われており、

 

想いや感情も、見えているものと分離していない。

 

だから、ある人を見て怒りが湧いてきたりしても、

 

見えているその人と怒りは分離などしてはおらず、

 

その人を見ている自分や怒りを感じている自分もなく、

 

それ自体で赦されきった実相として脈打っている。

 

 

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カフェで向かいの席に座って勉強をしている学生、

 

視界の隅からぱっと顕われ、通り過ぎてゆく美女、

 

コーヒーを口に運んで味わっている自分、

 

これらは皆、反映とか投影とか夢の映像とかではなく

 

実相そのものである。

 

実相という到達できる特別な領域があるのではなく、

 

ゼロの距離で今このままで実相なのだ。

 

〝二つの窓〟から世界を見ている誰かもいなければ、

 

幻想を映し出している自我の映写機や、

 

ひとつなるもの、みたいなものがあるわけでもない。

 

「ああ、見えているこれが実相そのものだったんだ」

 

「ああ、この人の中に実相を見ている」

 

というのも完全に間違っている。

 

 

一人暮らし開始後に、一度インスタライブします。

 

鍵アカなので事前フォローリクエストお願いします。

 

@hoshitani

 

 

誰も座らない

 

 

 

今日台湾語の授業を受けるためにJRに乗っていたら

 

何とも奇妙なことが立て続けに起こった。

 

朝9時15分の大阪へ向かう快速に乗ったのだ。

 

大阪のおばちゃん根性で扉が開くと同時に、

 

空いている席めがけて直進する。

 

二人掛けの席が空いていたので窓側に座った。

 

 

車内の混み具合は、ガラガラとギュウギュウの中間で

 

立っている人もまあまあいる。

 

そして、電車が動き出して「あれっ?」と思った。

 

僕の隣の席に誰も座らないのだ。

 

シートが汚れているのか、と見てみるが、そうではない。

 

僕が変な人だからみんな隣に座りたがらない?

 

マスクもしてるし、身なりもちゃんとしてるし、臭くもない。

 

 

 

次の停車駅で、更に多くの乗客が乗り込んできた。

 

しかし、僕の隣の席は空席のままで、誰も腰掛けない。

 

こんなに混んでいて、席があったら誰か座る筈なのに、

 

なんで僕の隣には誰も座らないのか?絶対おかしい。

 

それで、周囲の人たちの様子をそれとなく窺ってみた。

 

みんな、この空いている席を別段気にする様子もなく、

 

まるでそこにはすでに誰かが腰掛けているかのように、

 

普通に窓の外を眺めたり、スマホをいじったりしている。

 

新大阪に着いて、また人が乗ってきても状況は同じで、

 

最後まで、誰もこの席には座らなかった。

 

 



 

大阪駅で下車し、ホームからさっきの席を見てみた。

 

人がちゃんと座っていた。

 

次に、東梅田から地下鉄に乗った。

 

ここでも、立っている人がいっぱいいるにもかかわらず

 

僕が座った隣のシートには誰も座らない。

 

僕はみんなからヤバい人に見えているのか、と、

 

ちょっとヘコみながら授業に行ってみると、

 

先生は、別に普通のテンションで接してくれた。

 

それで、先生にこういうことがあって、と説明し、

 

僕って何か変ですか、と訊いたが、いや別に、

 

と言われた。

 

 

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隣に誰も座ってくれない、で検索してみた。

 

不快なオーラを発しているからだ、とか、

 

霊がとりついている、とか、色々出てきたが、

 

どれも絶対違うと確信できる。

 

もし、隣に兄貴が座っていたら見えるはずなのに、

 

あれはいったい何だったんだろう?

 

僕には見えない誰かが座っていたのか?

 

よく、3人でレストランに入ったら、水が4つ出てきた

 

という話を聞くが、ひょっとして、その類か?

 

どなたか、こんな経験をした兄弟がおられれば、

 

または、こんなことが起こる真相をご存じの方は、

 

コメントくだされば幸いです。