香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

思う以前”からある〝想い〟

 

 

生物的な意味で〝自分〟とは何かと問われると、

 

  • 目⇒視覚=見えているもの
  • 耳⇒聴覚=聞こえているもの
  • 肌⇒触覚=感じているもの
  • 舌⇒味覚=味わっているもの
  • 鼻⇒嗅覚=匂っているもの
  • 脳(意識)⇒知覚=認識されているもの

 

上記の6つの機能の総合的活動だ、と言えるだろう。

 

肉体は幻想だ、世界は無いと言ったって、

 

耳や口が無ければその言葉すら発することができない。

 

なので、世界は無い、私はない、と解かるより以前に、

 

先に、目で見えるものがあり、耳で聞こえるものがある。

 

目は、見えているモノを、見えているまま伝え、

 

耳は、聞こえている音を聞こえている通りに伝えている。

 

意識も、目や耳と同様に、

 

「あ、山田さんだ」 とか 「あ、救急車が通った」 と、

 

認識した通り、知覚したままを伝えている。

 

従って、自分などない、世界は夢で幻想だ、

 

と解釈する前の、5感に飛び込んでくる光の奥に、

 

神の想いがあり、兄貴を認識できる領域がある。

 

(※ 領域という言葉さえも適切ではないのだが…)

 

 

 

 

僕の場合は、自分とは別に兄貴という存在がいて、

 

その兄貴の導きに自分が従う、という感じではなく、

 

すでに兄貴は僕の中で同一化されて息づいており、

 

今の自分に見えているもの、聞こえているもの、

 

それイコールで兄貴のガイダンスとなっている。

 

 

 

 

例えば、6感、即、兄貴で任せきって動いている時、

 

こっちに行った方がいい、とか、これを買った方がいい

 

とか、この人にこれを伝えた方がいい、というような、

 

直感やメッセージが兄貴からやってくるのではなく、

 

もう行ってしまっていて、買ってしまっていて、

 

伝えてしまっていることに対して何の抵抗も無い。

 

 

そんなことをしたら約束の時間に間に合わない、

 

この人にこんなことを言ったら大変なことになる、

 

赤い服を着たいけどやっぱり無難な黒にしようか、

 

ああ、聖霊、どうしたらいいか教えてください、

 

という思いが湧いてくる以前に、

 

間に合わなくてもいいからこれをしたい、

 

本当はこういうことを言いたい、赤い服を着たい、

 

といった本音の想いが立ち上がっているはずであり、

 

その〝本当はこうしたい〟想いに任せていることが

 

兄貴のガイダンスに従うことの意味となっている。

 

 

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僕らの時代ー4

👆 浜松町の消火栓

 

 

少し前の話になるが、

 

スワットしおちゃんと茶屋町で飲んでいる最中、

 

孝弘から電話がかかってきた。

 

前回彼に貸したアニータの本にすごく感銘したので、

 

自分用にもう一冊購入してくれないかという。

 

というのも、

 

彼は現在クレジットカードを持っていないため、

 

代わりにネットで購入してほしいと言ってきたのだ。

 

貸している俺の本をあげるよ、と言ったのだが、

 

どうしても自分用に新品の本がほしいらしい。

 

 

その夜、アマゾンで手配し、あくる日に本は到着した。

 

で、孝弘は本を受け取りに僕の家までやって来た。

 

僕の家にやってきた初めての客が孝弘とは…トホホ…。

 

彼はラム酒、僕は白ワインで乾杯し、だべった。

 

 

👆 梅田の消火栓

 

〝自分は他の人より劣っている〟

 

という感覚から抜け出せないでいるのだ、

 

と彼は語った。

 

アニータがどんなに、存在するだけで価値がある、

 

と言っても、無価値感が容赦なく襲ってくるのだ、と…。

 

その時、なぜか僕は、

 

あの、コンババ部長タメ口事件を思い出していた。

 

年下の上司からタメ口をきかれ、

 

無価値感と怒りで心の中は修羅と化していたが、

 

ちゃんと相手に直接言葉で思いをぶつけたことで、

 

その無価値感が瞬時に消えてしまった事実を、

 

気がつけば孝弘に語っていた。

 

 

 

語り終えた時、なぜか、雄太のことが頭に浮かんだ。

 

当時の僕は、彼に対して、様々な不義理をしてきた。

 

今度は僕がコンババ部長になる番だ、と思ったのだ。

 

 

孝弘が帰った後、十数年ぶりに雄太に電話してみた。

 

「おお、周作か。どうしてんねん」

 

彼は驚いていた。

 

それから、その当時の自分の行いを彼に詫びた。

 

(※僕らの時代-1 をご参照願います)

 

「昔のことやし、そんなん、もうええよ」と言ってくれた。

 

実際、彼がどう思っているか、真偽は定かではないが、

 

今の僕には謝ること以外、何もできることはなかった。

 

それで彼がどう思おうと、もうどうすることもできない。

 

そうなのだ。相手が問題なのではないのだ。

 

自分の中の赦されない想いだけが問題だった。

 

 

 

 

別れ際、孝弘が僕に銀行の封筒を差し出した。

 

何かと聞けば、以前僕から借りていたお金だという。

 

それはもう、何十年も前に貸したもので、

 

自分でもすっかり忘れていた。

 

親友なら固辞するのが常識だが、僕は受け取った。

 

なぜなら、僕と同様、彼もまた、過去の自分と向き合い

 

心の中の無価値感に決着をつけようとしているのだ、

 

ということが心底理解できたからだ。

 

だから、彼がお金を借りた時の気持ちを考えた時、

 

僕は、悦んでこのお金を受け取るべきだと思ったのだ。

 

 

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そういう僕もまた、五十ン年生きてきた中で、

 

決着をつけるべき相手は一人や二人ではない。

 

僕が日本へ戻って来たのは、

 

そういった人たちと向き合うためだった、

 

と言っても過言ではないと思っている。

 

何か行動を起こして解決するという意味ではなく、

 

あくまで、

 

自分の心の中で決着をつけていかねばならない。

 

僕の場合、終活にはちょっと早いかもしれないが、

 

真の終活とは、資産を整理することでも、

 

断捨離をすることでも、お墓を建てることでもなく、

 

赦していない、または、赦されていない兄弟を通して、

 

自分自身の心に決着をつけることなのだ。

 

 

死ぬ気でスルー

 

 

僕が最近よく口にする〝五感に任せる〟だが、

 

これを別の表現で説明すると、目に見えているもの、

 

耳に聞こえているもの、肌に触れているもの、など、

 

すなわち現実のスクリーン側から自分に向かって

 

やってくる物や音など、5感の感触を、

 

何の解釈もはさまず、瞬時に背後へ流し去る。

 

それが兄貴に明け渡すことと同義語になる。

 

 

例えば、上司から「アホ、ボケ、カス」と言われたとして

 

目に見えている上司の背格好や表情そのまんま、

 

耳に聞こえている「アホ、ボケ、カス」の音そのまんまを

 

肉体(脳)をスルーさせて背後へ消え去らせてやる。

 

それがゲイリー4冊目の中に出てくる〝見過ごす〟

 

ことの実践である。

 

しかし、僕たちは何をやっているかと言うと、

 

職場の会議室で言われた「アホ、ボケ、カス」が、

 

帰宅後も、入浴中も、日曜日も、頭に響いていて、

 

再度失敗して上司から叱責されたらどうしよう、

 

みんなの前で恥をかかされたらどうしよう、と、

 

それは今、跡形もなく過ぎ去ってここにはないのに、

 

意識はずっと、当時の状況を再生し続けている。

 

今、見えているのは退勤後に会った友人の笑顔であり

 

今、聞こえているのはバラエティ番組の笑い声であり、

 

今、感じているのは日曜の温かい秋の日差しなのに、

 

意識は今もずっと、上司に言われたあの瞬間の

 

「アホ、ボケ、カス」を見て、聞いて、感じている。

 

 

要するに、

 

見えて聞こえて感じているありのままの事実を、

 

そのまま背後へスルーさせることができず、

 

肉体(脳)でせき止めてしまっている。

 

五感が感じた出来事は様々な感情に変化する。

 

その感情が細胞に沁みこみ、溜め込むことになる。

 

 

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意識だけが問題である。

 

目も、耳も、鼻も、舌も、肌も、その通りを伝えている。

 

なのに、意識(脳/頭)だけがまるで、

 

俺が五感を支配している、とばかりに出しゃばってくる。

 

 

本当の本当の本当にもうこんなの嫌だ、終わらせたい、

 

のなら、頭では分かっているんだけど、レベルではなく、

 

引きずろうとする意識に絶対に取り合わない、と、

 

徹底して腹をくくって24時間〝在る〟ことである。

 

これが、奇跡講座で言っている、

 

神と神の国を護るためだけに警戒していなさい、

 

の実践的意味であり、5感に任せるの真意である。