香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

肯定する赦し

 

 

香港さんのブログを読んでいると、

 

赦しは必要ないように思えるのですが…と、

 

ある読者の方からご質問をいただいた。

 

「えっ? 赦しは必要ないなんてオレ書いたかなあ?」

 

と首をひねりつつも、ひょっとして多くの読者の方々が

 

同じように感じておられるのかもしれないと思ったので、

 

誤解を避けるために、ちょっと書いてみることにする。

 

 

一般的に、僕達コース兄弟が赦しと呼んでいるのは、

 

神を否定したことからくる無意識の罪悪感を、

 

夢の現実に触れて出てくる様々な感情を通して認識し、

 

それは無かったと否定して、その想いを聖霊に返す、

 

いわゆる、神の否定を否定することによって、

 

無罪(神)を思い出してゆくことなのだと思う。

 

といっても、赦しの解釈や方法は人それぞれであり、

 

ナンチャラ派とかによっても微妙に異なるので、

 

これが正しい、とか、一概には言えない。

 

 

 

 

僕の場合は、罪悪を見て否定するのではなく、

 

夢の現実に現れる様々な事象を通して、

 

そこに在る神を〝肯定〟することが赦しとなっている。

 

というのも、僕の過去記事を読めば分かるように、

 

僕も以前は、ないを認識して選び直す赦しをしていた。

 

だが、もとからないものを「ない、ない」と言い続けて

 

罪悪を見続けているうち、だんだん苦しくなってきた。

 

そんなとき、ハートの奥で疼いていた

 

〝神の感じ〟〝愛されている感じ〟への抵抗をやめ

 

神側(無限の全体側)から世界を眺めた瞬間、

 

全てが愛だった、となり、世界は本当に無かった、

 

本当に罪なんて無かった、ことが明確になった。

 

なので、自分を責めるな、他人よりも自分を褒めろ、

 

抵抗をやめて今この瞬間に開け、ここに在る神を見ろ

 

と、何度も書いているのは、どんな赦しをするにせよ、

 

まずは、

 

神側(自分側)を肯定しないと始まらないからである。

 

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あと、僕が自分の体験や気づきを書く際、

 

必ず〝僕の場合は〟と前置きして表現しているのも、

 

それはあくまでも僕の場合のことを書いているので、

 

全ての兄弟たちに当てはまるとは限らないからだ。

 

いや、ワプニックも、デイヴィッドも、ゲイリーも、

 

言ってみればみんな〝僕の場合は〟なのである。

 

だから、何から何まで100%自分にピタッ、

 

なんてあり得ない。

 

故に、もし誰かに師事して違和感を感じたならば、

 

違和感を感じた自分が正しい。

 

相手のやり方に、

 

無理くり自分を寄せてゆく必要などないのだ。

 

自分の中の兄貴に従って進んでゆけばいい。

 

 

兄貴の声を聞くには、まず、いい子ぶるのをやめて、

 

ウソのない自分のホンネを聞いてやることだ。

 

みんなに愛を送ります、と言いながらも、本音では、

 

みんな死ねばいいのに、と思っていたりする。

 

それを、

 

「ない」とか「でも大丈夫」と流すのではなく

 

真正面から見据え、力強く許容してやる。

 

そうすることで、

 

いままで自分が罪だと思い込んでいたものが、

 

本当は何だったのかが見えてくる。

 

それが肯定する赦しとなる。

 

 

あと、このブログは、当時の自分がどうであったか、

 

を思い出すための記録用として綴っており、

 

多くの人に真理を伝えよう、分かってもらおう、

 

などという意図は全く含んでいないので、

 

そこのところを、ご理解いただければ幸いである。

 

 

神を他人事にしない

 

 

 

この現実の世界は、寝ている時に見る夢と同じ幻想で

 

本当ではなく、実際には何も起こってはいない、

 

ということがストンと落ちた瞬間、罪悪感が消えた。

 

もちろん、今でも夢の現実に誘発されるように、

 

罪悪感が湧き上がってくることはあるが、

 

もうそれを問題視して苦しむようなことはなくなった。

 

 

僕の場合(あくまで僕の場合であるのであしからず)

 

心の中の在ると思い込んでいる罪悪感をひとつひとつ

 

光に晒すことで罪など無かった、となるのではなく、

 

自分が夢を見ていることをはっきり知覚することで、

 

あの罪も、この後ろめたさも、全部うそだった、

 

と理解が起きた。

 

 

会社で何が起こっていても、誰に何を言われても、

 

自分が何を持っていても、持っていなくても、

 

過去に何をやらかしていても、それ全部、幻影である。

 

本当の本当にただの夢で、夢を見てるだけだ。

 

 

なぜなら、

 

3日前に食べたものを覚えているだろうか?

 

先週行った、スタバの店員さんの顔を覚えているか?

 

相手は言った、と言い、自分は言ってない、と言う。

 

こんなの、本当に起こっているといえるのだろうか?

 

それだけでも幻影だと分かる。

 

 

こういう話をスピ兄弟にすると、

 

「ああ、そうだよね。夢だよね」と同意されて終わる。

 

実際、仕事のトラブルなどで散々ちょちょ舞った後で、

 

「でも大丈夫。これは本当ではなく何も起こってない」

 

とやっていたりする。

 

これって、この世界が夢だという事実を、

 

どこか他人事のように捉えている感じがする。

 

自分が見ている夢なのに、そうだよねえ、夢だよねえ

 

と、他人事のように捉えている。

 

 

夢だからいいんだ、ではない。

 

ここが夢の世界なんだ、とはっきり知覚しながら、

 

〝自分が見ている夢の瞬間瞬間〟を生きるのだ。

 

すると、過去に起こったあの悲惨な日々も、

 

いま思っている将来に対する不安も、

 

本当になかった、本当に妄想だったことが自覚され、

 

その時初めて、罪など無かったことがハッキリする。

 

 

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批判を恐れずに言うならば、

 

奇跡講座や、バシャールや、誰々さんが先手ではない。

 

自分の中にある兄貴(聖霊/神/無限の全体)が先手だ。

 

奇跡講座や、バシャールや、悟りを通じて、

 

神につながるのでもない。

 

自分が、それそのものであることを生きることで、

 

夢から目醒めるのだ。

 

 

とまあ、今日は、

 

分かる人にしかわからないことを書いてみた。

 

おやすみなさい。

 

 

 

とある一日

👆 家からふらっと歩いてやってきて、

   曽根崎でランチをして帰る。

   これぞ、都会暮らしのだいご味である!

   こんな僕にネパールは無理!

 

 

少し前の記事で、日本語教師の資格を取得した後、

 

ネパールで学生に日本語を教えながら、

 

日本へ留学生を派遣する仕事をしてみないか、

 

という話がでている、というようなことを書いたが、

 

先日、実際にネパールでその仕事をしている人と、

 

ビデオ通話でいろいろ具体的な話をしたのだ。

 

 



彼は、先日僕が八尾で会ったネパール人の校長が

 

経営する日本語学校で日本語の先生をしながら、

 

日本へ生徒を派遣する仕事をしている。

 

29歳の好青年でネパールへ行って一年になる。

 

生徒を1人派遣すると、日本にある日本語学校から、

 

10万円のキックバックがもらえるしくみだ。

 

もし、僕が彼の仕事を手伝うことになれば、

 

八尾にある会社の役員となって厚生年金と社会保険

 

は確保してもらいつつ、キックバックで稼ぐことになる。

 

彼いわく、現在、毎月最低10人ほどを派遣しているが、

 

僕と二人体制でやれば、30人は派遣できるという。

 

 

👆 カウンターで昼呑み~!

 

 

だが、ネパールでは、一般企業を含め、学校や商店も、

 

朝6時始まりで、日本語学校の授業も6時からとなる。

 

午前中、授業をして、午後は生徒たちのビザ手続き

 

などの事務作業を行ない、夕方6時に仕事が終わる。

 

娯楽も特にないので、午後7時頃には商店も閉まり、

 

9時にはみんな就寝するのだという。

 

これを聞いて、僕には絶対無理だ、と思った。

 

多分、自分には、台湾の方が性に合っている。

 

 

👆 午後1時に入った時は満席だったのに、

   4時に帰るときはガッラガラ!

 

 

そのあくる日、以前、近江八幡宮へ日帰り旅行をした

 

あの植物園の館長と梅田で軽いランチをした。

 

そこで、このネパールと台湾の話をしたところ、

 

その館長(67歳/東大卒/植物研究ン十年)は、

 

数年後、君のお母さんが寝たきりになったら、

 

どうやって面倒を見るんだ、とか、今はまだいいが、

 

数年もすると足腰が言うことをきかなくなるぞ、

 

といった〝もしこうなったらトーク〟を繰り広げた。

 

 

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「もしそうなったら、そうなったときに考えます」

 

と僕は答えた。

 

だって、

 

母が寝たきりになるかどうかなんて誰にも分らないし、

 

自分の足腰がどうなっているのかも知りようがない。

 

分からない未知の未来を、あーだこーだ推測して、

 

今を制限するなんて、全く以ってナンセンスだ。

 

 

未来に損害を被らないために、今こう対処しておく、

 

という考えは、自分は未来をコントロールできる、

 

という、ある意味、傲慢な思い込みから来ている。

 

そしてこの思い込みこそが〝愛への抵抗〟である。

 

なぜなら、明日、自分が生きているかどうかさえ

 

知ることができないのに、

 

未来をコントロールするなんて不可能だからだ。

 

今この瞬間の自分への抵抗をやめ、

 

そのままに委ねて〝今の大好き〟を実行することで

 

過去も未来も消えてゆく。

 

ていうか、これ全部、本当の本当に幻覚である。