👆いつもメンズサロンで髪を切ってもらう
春なのでばっさりゼロフェードで…
カットはいつも藤田さん。
授業がひと段落着いたので、
量子力学の雑誌を再度見直したりしている。
自分の肉体を量子力学の世界から見ると、
無数の素粒子が集まって肉体ができているのではなく
一個(数個?)の素粒子が、あらゆる場所に同時に
現れることで肉体や物質を形作っているのだという。
なので、素粒子レベルで見ると、僕たちの肉体は
スッカスカのガッランガランで、隙間だらけらしい。
もし、その隙間をつぶして、素粒子だけを集めると、
本当にちっちゃい砂粒以下の存在になるという。
また、ここからは仮説になるのだが、
この隙間の部分をフォトン(光子)が通り抜けることで、
その振動が感情や想いとして現われている。
アインシュタインは、この隙間に神が在る、と言った。
そう考えると、自分は〝神が宿るもの〟自体であり、
自分は常に神の隙間と共に存在しており、
我ゆくところ、神が通る、みたいな感覚になる。
なんていうか、自分が赴く場所に神も赴くので、
どこにいても、そこが自分にとって神聖な場所となる。
自分の核に、その神聖な存在が知覚されると、
周囲の人や物や事が、まるで神を敬うかのように、
自分に対して愛と優しさを以って接してくるのだ。
自分はいつも最善の場所にいる、という智覚は、
ここ と あそこ、どっちにいた方が幸せなのか、とか、
同じ金を払うならどっちへ行った方が得か、とか、
こっちの店とあっちの店、どっちがいい、というような、
レベルをはるかに超えて、もう、不動の位置というか、
たとえトイレにいてもそこが最高の場所と知覚される。
それが今を肯定することなんだ、と分かる。
ただ、自分の中の核の部分(スッカスカの隙間部分)に、
神から愛されているという智覚が流れていなければ、
〝自分(神)が行くところ、いつも神聖な場所になる〟
とやっても、それを檻から出ない口実にするだけだ。
本当は、嫌で嫌で仕方がない場所にいるのに、
わたしはいつも最高の場所にいます、と、
言い聞かせのようにやってもダメなのだ。
そして、神から愛されている智覚とは何かといいうと、
それは、自分を含める全てを肯定している感覚である。
量子論では、
自分が意識を向けた瞬間に確率が一に近づき、
素粒子がその意識の場を作り出す。
なので、この自分を肯定している感じに意識を
向けることが何より大切になってくる。