香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

そこにいるメリット

 

 

スピリチュアルの探求を始める理由のひとつに、

 

人間関係の苦しみを何とかしたい、というのがある。

 

そして、ようつべなどに出てくる非二元リーダーや、

 

悟り系、引き寄せ系マスターなどの動画を見ると、

 

みな、大笑いしながら楽しそうに語っていたりして、

 

人間関係の苦しみから解放されているように見える。

 

現に僕も、会社役員をしながら日本語を教えているが

 

日常においては、人間関係の苦しみは〝全く〟ない。

 

これは、前にも書いたが、悟った結果でも何でもなく、

 

嫌な人がいる場所にいる必要がないだけのことである。

 

 

 

 

会社勤めをしていた頃は、コンババ部長やら、

 

部下の反抗やらでひーひー言っていた。

 

ほかの兄弟たちで言えば、

 

部下が言うことを聞かない、上司からのパワハラ、

 

夫(または妻)が怖い(笑)、面倒なご近所付き合い、

 

母親(または父親)からの精神的呪縛、などなど、

 

そんな会社なら辞めればいいし、離婚すればいいし、

 

近所付き合いを断てばいいし、親子の縁を切ればいい。

 

なのにそれをしないのは、金銭面、生活面で、

 

何らかの〝利益〟が得られているからに他ならない。

 

例えば、

 

刃物を持って襲ってくる人からは一目散に逃げるのに

 

嫌な場所や人から逃げないのは、そこにいると、

 

お給料がもらえたり、信用が得られたりするからだ。

 

要するに、自分の意志で〝そこ〟にいるのだ。

 

 

 

僕の場合、

 

これ全部夢でウソやん、と体験として解かった瞬間、

 

本来自分が居たいとも思っていなかった場所、または、

 

自分が一緒にいたいとも思っていない人達から

 

離れても何の問題もないことが理解できた。

 

それに、自分が恐れている、あの人たちは、

 

そのままですでに愛おしい存在なので、

 

なんら変える必要もないことが理解できてくる。

 

 

いや、そこにい続けようが、い続けまいが、

 

夢なので、その夢をずっと見続けていても

 

何ら問題は無いのだが、

 

こと、この夢の世界から永遠に脱出する、

 

ということに至っては、完全に夢を夢として扱い、

 

実際に、

 

夢だと知覚しながら生きていなければならない。

 

 

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自分が今牢獄にいるかどうかを確かめる手段がある。

 

もし、来世に生まれ変わったとして、あなたは、

 

今回と同じ職場で、同じ同僚と、同じ仕事をしたいか、

 

今回と同じ相手と、同じ生活を送りたいか、

 

今回と同じ環境で、同じ人生を送ってもよいか、

 

もし答えがノーであるなら、あなたは牢獄にいる。

 

その牢獄の中でいくら神を叫ぼうが無意味である。

 

 

とは言っても、僕の場合は年齢がかなりアレなので、

 

まだ達観していられるが、先が長い人にとっては、

 

ここは夢なんだ、では片づけられないことも多々ある。

 

「真理は分かった。でも自分はここでやっていくっ!」

 

と、そんな時は潔く覚悟を決めて留まる。

 

留まる事を自分で決めればそこはもう牢獄ではない。

 

 

起きていることを深刻に受け取る必要などない。

 

だって、それは、夢なのだから…。

 

寒梅

 

 

今の僕は週三日しか働いておらず、他の時間は、

 

主に近所の喫茶店で、創作をして過ごしている。

 

授業の方も、生徒たちが中級に入ったので、

 

そんなに準備をしなくても事足りるようになってきた。

 

なので、創作に煮詰まると、すぐに車で出かけてゆく。

 

それで、先日、滋賀の長浜まで、梅を見に行ってきた。

 

 

 

 

すっごく寒い日で、長浜にはまだ雪が残っていた。

 

開花しきっていない冬の盆梅は、雪景色と相まって、

 

何とも言えない風情をかもし出し、とても美しかった。

 

その後、昔の近江商人たちの街並みを散策した。

 

この辺は空襲を免れたのか、古い屋敷が多い。

 

琵琶湖のほとりまで歩きたかったが、あまりに寒くて、

 

車で近くまで行き、ちょこっと写真だけ取って退散した。

 

 

 

 

帰りの車中、信号待ちで伊吹山を正面に見ていた時、

 

大きな愛の存在感に包まれて、泣いてしまった。

 

夢の光景がいくら変幻自在に変化し、消えて行っても

 

ずっと変わらず、そこにある〝存在感〟。

 

 

僕はもう、そこそこの年齢なので、

 

将来に不安がないか、と言えばうそになる。

 

お金だって、そんなにたくさんあるわけでもない。

 

しかし、その存在感はあまりにもクリアで、リアルで、

 

故に、ここは全部夢なので、心配することなどない、

 

と〝体感〟でわかっているので、

 

問題なく今に開いてじっとしていられる。

 

 

 

 

会社の同僚、家族、パートナー、友人、街行く人々、

 

これは幻想で真実ではない、と言いながらも、

 

確かに、ここに在る相手の存在感、そして、

 

赦しても、沈黙しても、聖霊に一致させて動いても(爆)

 

それでもまだここに在ると感じる不変で普遍の気配、

 

その存在感を智ることが決定的に大切になってくる。

 

でなければ、表面の出来事ばかりを追うことになり、

 

延々相手を赦そうとし、罪悪を見つめようとし、

 

兄貴に委ね続けることになるからだ。

 

これまで忌み嫌ってきたその存在感が、

 

本当は何だったのかを智った瞬間、

 

〝愛してるーっ!〟が怒涛の如く押し寄せてくる。

 

 

 

 

よく悟り系のマスターや、禅の導師が言うような、

 

〝これしかない〟〝自己の真相が明らかになる〟

 

〝意識が死に切った時の解脱しているナマの様子〟

 

〝自分という実態なんかない〟の言葉が示す、

 

その先にある表現しようのない〝存在感〟。

 

 

 

 

幻想の中にどっぷり漬かって生きる人たちは、

 

〝神〟や〝愛〟という言葉を嫌う人が多いが、

 

その存在感は神と愛でしか表現できないものだ。

 

しかし、それらの言葉を、言葉で理解し、

 

自分の中に取り込もうとすると、ずれていってしまう。

 

解釈ではなく、その存在感を体験すること、

 

そこには「どうやって?」という解釈はない。

 

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閉ざされた世界

 

 

 

1月28日で神戸のルミナリエが終了するというので、

 

健康寿命を悔いなく生きると決めている僕は(爆)(笑)

 

先週、慌てて神戸まで行ってきた。

 

駐車場が気になりつつも、電車ではなく、車で行った。

 

結局、大丸の駐車場がガラガラだったので助かった。

 

僕はバックでの駐車が大嫌い(っていうか、できない)

 

ので、頭から突っ込める場所を探して難儀した(悲)。

 

 

 

 

ルミナリエは、僕が旧正月の休暇で,

 

香港から一時帰国する度に、

 

写真が趣味の父親と一緒に、何度も訪れた場所だ。

 

そんな父も数年前に亡くなり、

 

現われては消えてゆく夢の儚さをかみしめながら、

 

美しい電飾の数々を眺めていたら、涙が溢れてきた。

 

なんていうか、自分の心の中そのものが、

 

バーン、とルミナリエとして立ち現れているようで、

 

感動で、目を見張ってしまったのだ。

 

 

 

 

その後、商船三井ビルから、

 

ハイブランドの店がひしめく通りを突っ切るように、

 

大丸まで歩いた。

 

なんだか夢を見ているような感覚。

 

店の中で働いている着飾った店員さんも、

 

どことなく現実ではない、バーチャルな感じがする。

 

 

最後は大丸の屋上で、ピザを食べて帰ってきた。

 

(駐車代がタダになるから…)

 

 

👆 神戸ってやっぱりおしゃれ!

 

 

自分が見ている世界は、寝ている時に見る夢と同じで

 

本当ではなく、故に、自分は今、夢の中を生きており、

 

どんな夢が展開しても、深刻になる必要などない、と、

 

理解しつつ、全ての想いを兄貴に(85%くらい?)

 

渡しながら過ごしているボクである。

 

(えっ?100パーちゃうんかい?なんやねん!)

 

 

とまあ、こんな毎日を送っているからか、最近、

 

視覚の見え方?が変容してきた。

 

 

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僕たちは普通、

 

眼球の表面で外の世界を見ている、と思っているが、

 

世界が夢だ、という感覚が深くなってくると、

 

眼球の内側で世界が展開されている感じになる。

 

なんていうか、寝ている時に見ているの夢と同じで、

 

瞼を閉じているのに映像は見えてます、みたいな…。

 

空間は自分の目の裏側で完結していて、

 

目の外側には何もない。

 

よって、今見えている映像以外の世界は無い。

 

 

 



 

例えば、今自分の部屋でご飯を食べているとすると、

 

ご飯を食べている映像だけが〝見えている〟ような

 

内に閉ざされた世界の中で飯食ってる、といった、

 

外ではなく、内側で起きている感覚になってくる。

 

まるでVRのゴーグルを装着して生活しているみたい。

 

目の内部に閉じられている世界で活動しているので、

 

自分の肉体もあいまいな感じがする。

 

人や車も、ふっ、と突然画面に現れるような感じ。

 

本当に、ゲームの画面の中にいるみたい。

 

 

なので、一刻も早くゴーグルを脱ぎ去って、

 

娑婆とおさらばしたいボクである。