香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

こんな世界はうんざりなんだ

👆 土曜深夜1時のジム

      このひっそり感がすき! 

 

ふっと出てきた思いを意識が捉らえて、

 

それを〝自分が考えた〟と勘違いしている、とか、

 

その思いがふっと出てこない限り何もできない、など、

 

最近、ふっふっふっふっ、と、やたらうるさいボクだが、

 

じゃあ、この〝ふっ〟はどこからやってくるのか、

 

どうやって〝ふっ〟とした思いが湧いてきているのか、

 

と言えば、これはあくまで僕の見解なのだが、

 

それはビッグバン(第4分裂/分離)と共に始まった、

 

と言えるだろう。

 

なので、意識は〝ふっ〟より前を知らない。

 

それは意識が生まれる前の話だからだ。

 

 

そういう観点から見れば、

 

今この瞬間には、時間も空間もないため、

 

一切の解釈を見過ごし、今この瞬間の縦軸へ、

 

強烈にフォーカスすることで、

 

ビッグバン以前まで瞬時に遡ることができる。

 

そして、その0.00001秒の聖なる瞬間から、

 

再び、個のわたしが回復した時、

 

そもそも分離など起こっていなかったことを智るのだ。

 

 

これまで僕が書いてきたように、

 

街行く兄弟たちや、街の何気ない風景を見て、

 

性的オーガズムにも似た巨大な法悦感を感じて、

 

あわわわわーっ(ヌレヌレボッキン)(笑)

 

となっていたのも、

 

これまであらゆる解釈(考え)によって歪められ、

 

モノや人の中に閉じ込められていた神が解放され、

 

この人は、誰々さんだから愛してる、

 

これは、自分が大好きなことだから愛を感じてる

 

ではなく、ただ、愛してるーっ、だけが、

 

ダイレクトに出てきた結果だったのだと今なら解かる。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

しかし、こう書くとまた、

 

「全部〝ふっ〟と出てくる思いだけなのは分かった。

 

じゃあ、なんで自分には、こんなにも苦しく、

 

ネガティブな〝ふっ〟の想いばかりが出てくるのか、

 

どうすれば、もっといい〝ふっ〟になるのだろう?」

 

と、意識はすぐに〝横取り〟しようとしてくる。

 

ムリである。意識はふっ以前を知らないのだから…。

 

それに、ふっ、を捉えた時にはすでに終わっている。

 

だから、僕はもう、こんな世界はうんざりなので、

 

〝閉店ガラガラ、いち抜けやんぴ〟である。

 

 

真にこのVR世界から解放されるためには、

 

今この瞬間のほんの一瞬、

 

意識の活動を完全に放棄しなければならない。

 

それが〝少しの意欲〟であり〝一瞬黙る〟、

 

の意味だと思っている。

 

 

 

全ては後の祭り

 

 

見えているもの、聞こえているもの、匂っているもの、

 

味わっているもの、感じているもの、といった、

 

知覚に委ねきって(渡しきって)じっとしているとは、

 

どういうことなのかと言うと、

 

これはペンだ、彼は山田さんだ、あれは通天閣だ、と、

 

具体的に解釈する前にある、抽象的なものを、

 

実態が明確でない印象のままに観る、ことである。

 

で、抽象的なものを観るとはどういうことかというと、

 

説明できないものを説明できないまま放っておく、

 

その説明できない〝感じ〟のままでいる、ことである。

 

 

例えば、このチョコレートの味を説明しろ、と言われて、

 

甘くて、でもちょっと苦くて、香ばしくて、と説明しても、

 

甘さや苦さにも、様々な甘さや苦さがあるし、

 

じゃあ、香ばしいってどんな味?

 

と訊かれても、表現することは絶対に不可能だ。

 

味そのものを伝えることなど絶対にできないのだ。

 

それでも僕たちはそのチョコレートの味を智っている。

 

最愛のパートナーである山田さんがどんな人なのか、

 

説明しろと言われてもできないが、

 

本人の気質、本質、はちゃんと理解できている。

 

 

水色、赤、ピーポーピーポー、ニャーニャー、

 

運子の匂い、キャラメルの味、暑い、寒い、など、

 

それを相手が〝体験〟していなければ、

 

いくら言葉で説明しても理解は起こらない。

 

「ほら、水色だよ、青の薄いやつ!」と言ったって、

 

相手が水色を見て体験していなければ、

 

いくら説明しても理解できないのだ。

 

解釈をして言葉で表現される前の、

 

説明のしようもないけど解っているもの、

 

その色そのもの、その音そのもの、匂いそのもの、

 

味そのもの、体感そのもので〝放っておく〟。

 

放っておこう、とする自分の意識もなく…、である。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

そうして、解釈が途絶えた0.00001秒の瞬間、

 

ハートが開いて、神の悦びが、ぐわああああーっ、

 

と駆け寄ってくる。(あくまで、僕の場合、である)

 

それが一瞬沈黙することであり、わずかな意欲であり

 

兄貴に委ねるということであり、聖なる瞬間と言える。

 

だが、そのためにはやはり、ちょこまか動かない時間、

 

静かにじっとしていられる時間、が必要になってくる。

 

しかし、仕事とか、子育てとか、趣味に没頭していると、

 

わかっちゃいるけど、またそのうち…、となってしまう。

 

勉強に集中しようとすると他の事が気になるのと同様

 

神に向かおうとすると、神以外の何かをし始める。

 

 

旅行や、リトリートや、趣味や、仕事に捧げても、

 

0.00001秒ですら兄貴には絶対に捧げないという…。

 

コース兄弟たるもの、そろそろ腹を決めるのだ!

 

 

人生の一本道

 

 

 

僕の人生はずっと一本道だったんだなあ、ということが

 

ここへきて、ようやく、腑に落ちて、わかってきた。

 

中国へ留学したのも、香港へ駐在したのも、

 

日本で広東語の教本を出版したのも、

 

台湾で小説本を出したのも、日本へ帰国したのも、

 

何ひとつ、自分で決めたものではなかった。

 

もう完璧に、そうなっていたのだ。

 

 

あの時、別の決断をしていれば、ああはならなかった、

 

あの時、こっちを選ばなければ、もっとこうなったはず、

 

人生にはいくつもの分岐点があって、

 

自分がどちらを選ぶかで、未来が変わってくる、

 

と思っていたが、そんなことにはなっていなかった。

 

どんなに迷った末の決断であっても、その決断が、

 

ふっと湧いてこない限り、決してその決断ができない。

 

ああ、やってしもた、と思った時にはもう終わっている。

 

だから、僕たちの人生は全て、後付けであり、

 

なんていうか、一瞬前の過去を生きてる感じ…。

 

 

じゃあ、全ての運命は生まれた時から決まっていて、

 

自分ではどうにもできないので諦めるしかないのか、

 

というと、これまたそうではない。

 

そもそも、運命をどうにかできる自分など存在しない。

 

別の言い方をすれば、全ての運命は、

 

今この瞬間瞬間にでてきた〝ふっ〟で決まっている。

 

自分無しに、

 

瞬間、瞬間、瞬間、確定、確定、確定、の連続である。

 

ただ、一瞬一瞬の変化があまりに高速すぎるので、

 

意識が捉えた時にはすでに終わってしまっている。

 

なんかもう、過去を生きてるような感じ。

 

だから、絶対に迷いようがない、というか、

 

迷った時には終わっていて、次のが来ている。

 

 

会社Aと会社B、両方採用になった。

 

会社Aは給料高いけど、人間関係きつそうだな、

 

会社Bは人間関係はラクそうだけど、残業あるしな、

 

とさんざん迷った挙句、会社Aにして大失敗、

 

となっても、迷ってる思いがその都度その都度、

 

ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、と出て来て、

 

会社Aにする思いがふっと出てきて、

 

結果、大失敗、という思いがふっと出てきて、

 

というふうに、本当は自分で会社Aを選んでない。

 

だから、失敗しようがない。

 

そして、一切の抵抗をやめて、この〝ふっ〟に、

 

抵抗しなくなり、一切を委ね切ってしまった瞬間、

 

僕は限りない解放と自由を感じた。

 

そうすると不思議なことに、

 

思いもよらない巡り合わせで、一件落着したりする。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

じゃあ、人をあやめたような犯罪者はどうなんだ、

 

自分でその罪を犯していないというのか、と、

 

当事者ではない人がお節介にも色々推測して、

 

ツッコんだりしてしまうが、それもまた、今この瞬間に、

 

その考えが、ふっと自然に出ているだけである。

 

仮に、実際に人をあやめた人が、その質問をしても、

 

それを言っている時にはもう犯罪は終わっていて、

 

今この瞬間の姿は、刑務所の壁、だったりする。

 

要するに、全部、終わってから考えてるだけである。