👆心斎橋大丸前で見かけた歩く広告
このバイト、やりたい!
買物の帰り、大川に反射する夕日を眺めながら、
自転車でプラプラと橋を渡っていたとき、突然、
道行く全ての人たちからの愛と優しさがわっと来て、
あわわわああー、となった。
その時はちょうど、会社の退勤の時間帯で、
地下鉄へ向かうサラリーマンやOLの人たち、
LUUPに乗って道を横切るミニスカートの女の子、
佐川のお兄ちゃん、保育園へ子供を迎えに行くため、
必死のパッチで電動ママチャリをこぐお母さん、など、
たくさんの人が行きかっていたのだが、その人たちが、
「大丈夫、私がついてる!」「愛してるよー!」と、
全力でサポートしてくれていることを理解したのだ。
👆 街を歩けば、中国語しか聞こえてこない
(心斎橋アメリカ村で…)
実際、表面上の彼らは、
僕のことになど気づいてもいないし、
僕のために具体的な何かをしてくれるわけでもない。
しかし、
僕は彼らを完全に信頼して頼っていいと智っている。
これは、肉体としての彼らがどうこう、ではなく、
僕の夢の映像に反映された、神の本質なのだった。
なんていうか、もう、
優しさと愛してるが、ぐわああーと駆け寄ってくる感じ。
すると不思議なことに、自分と関わる人たちがみんな、
本当に優しく接してくれるようになるから面白い。
いや、彼らに意地悪されようが、不当に扱われようが
それもまた、僕を導くための過程だと解かっている。
以前から、このような、全てが神に見える体験は、
このブログ内でも何度か書いてはいるが、
よくよく思い返してみると、
意識の矢印が世界側から自分に向いている時に
こういうふうになることが多い気がする。
逆に、仕事でテンパってあわわわ、となっていたり、
スマホを見ながらなんやかや考えていたり、
誰かに、きいぃーっ、となっていたり、と、
意識の軸が完全に外側にあり、それによって、
思考が止まらなくなっている時、つまり、
自分から世界側へと、意識の矢印が向いている時
というのは、兄弟が見知らぬ他人に見えている。
だって、どうせ、人生って、そのうちまた、
何やかや面倒なことは起こってくるのだから、
比較的葛藤の少ない毎日を送れているうちに、
おおいに、神を定着させていこうと思っている。