香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

期間限定の神

👆焼肉〝一斗〟

   大阪の中でもちょっとディープな場所にある

 

 

先週末、天王寺に住む友人に誘われ、

 

天下茶屋にある焼肉屋〝一斗〟へ行ってきた。

 

僕は、大阪の中でも京都に近い高槻の出身で、

 

南に位置する、西成や天王寺の界隈には、

 

生まれてこのかた、ほとんど行ったことがなかった。

 

25歳で海外へ出てしまったというのもあるが、

 

〝ガラがよくない〟ので難波より南へは行くな、

 

と親から言われ続けて育ったのも一因だと思う。

 

(高槻の人は、ミナミは品がよくないと思っている)

 

しかし今回、阿倍野の大学で教鞭をとることになり、

 

仕事終わりに天王寺周辺を探索するようになると、

 

天王寺に住む友人(45歳/医療関係/独身)が、

 

いろいろな場所へ連れて行ってくれるようになった。

 

 

一斗は、

 

高級な和牛をお手頃価格で提供している焼肉店で、

 

店員さんも気さくで、店の雰囲気も庶民的だ。

 

店内には南沙織や山本リンダの曲が流れている。

 

カウンター席で大将に直接注文するのだが、

 

ランプ、マルシン、イチボなど、名前が専門的過ぎて、

 

何を頼んでいいのか分からない。

 

結局、オーダーは大将と友人に任せた。

 

👆大将が僕らの会話にしょっ中割り込んでくる

 

美味い!

 

人生で食べた焼肉の中で一番美味しかったかも…。

 

そして、不思議なことに、あまり量を食べずとも、

 

すぐにお腹が満腹になったのだ。

 

大将曰く、それは肉が高級だからなのだという。

 

サシ(網目状に入りこんだ白い脂肪)が多いので、

 

量を食べなくても上質の脂肪で満腹になるらしい。

 

シメに粕うどんを食べたのだが、もうお腹一杯で、

 

本当に幸せなひと時を過ごせた。

 



いつもは、

 

「ああ、美味しかった。神を味わえて大満足~!」

 

で終わりなのに、この日はなぜか〝儚い〟と思った。

 

どんなに美味しいお肉を食べても、

 

その満たされた感覚は、その瞬間だけで終わり、

 

一瞬のうちに過ぎ去って消えてゆく。

 

やがて、不足感が追いついてきて、

 

また、何かで満たされようと動き出す。

 

ただその繰り返し…。

 

この世界にはずっと続くものなど何もない。

 

期限付きの愛、一瞬の幸せ、限定的な平安、

 

そんなもの要らない、と思った。

 

自分には、

 

神からの途方もない愛を永遠に受ける権利がある。

 

そのことを真に思い出したい、心底そう思えた。

 

ただ、永遠の神の愛を選ぶということは、

 

限定的な平安(私が決めた私の好きなもの)を捨てる

 

ということを意味する。

 

自我と神は全くの対局であり、自我は幻想である。

 

なので、

 

幻想を握りながら永遠へ戻ることは不可能である。

 

 

👇焼肉いろいろ

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これからも僕は美味しいお肉を食べるし、

 

マッサージにも行くし、夢を大いに楽しむだろう。

 

しかし、それができなくても何とも思わない。

 

自分が真にほしいのはそれじゃない。

 

 

 

 

返す先を間違えない

👆 午前4時のジムにて

 

というわけで今日も〝所有シリーズ〟は続く。

 

前回、

 

自分が所有していると思っているあらゆるものを、

 

もともとの所有者である神に返すことで、

 

苦しみから解放される、というようなことを書いたが、

 

一部のコースコミュニティで行なわれている

 

〝献身〟もまた、自分が所有したいという欲求を

 

手放すためのツールだったんだな、とふと思った。

 

 

昔、フランシスが自分の全財産をそっくりそのまま、

 

デイヴィッドのコミュに捧げたという話を聞いた時、

 

なんでそんなことをするのか全く理解できなかった。

 

それってもう、新興宗教のカルトじゃん、って…。

 

しかし、今考えるとそれは、彼女にとっての、

 

全てを神に返すための究極の手段だった、と分かる。

 

物理的な所有をひとつ残らず捨て去ることで彼女は、

 

神以外のものは何ひとつ要らない、と宣言したのだ。

 

もはやこれは、

 

彼女の心の中の神を求める決断であって、

 

デイヴィッドのコミュにお金を渡すことで救われる、

 

というような安易なものではない。

 

👆 なぜか早起きしてしまい、

    このままだと二度寝しそうなのでジムへ…

 

先日、東京で乙女ののりちゃんに会った時、

 

彼女も、自分の葉山の家をデイヴィッドに捧げる、

 

と申し出たらしいのだが、なぜか奇跡的に(笑)

 

貰ってもらえなかったという話をしていた(爆)(笑)

 

結果的にはそれでよかった、と彼女も述べていたが、

 

僕もまた、そこまでしなくてもいいと思うのだ。

 

献身というのは、神にするものであって、

 

コミュニティにするものではないからだ。

 

フランシスは、神以外のものは何一つ要らない、と、

 

真に神だけを望んで物理的所有を手放したが、

 

このコミュに献身すれば救われる、と依存していたり、

 

個人の所有物(要するにお金)を、

 

マスター的存在に捧げることが、神へ返すことになる、

 

というような〝すり替え〟があったりする。

 

しかし、心の中の所有を返す相手は神であって、

 

コミュニティのマスターでも、教祖でもない。

 

そこを絶対に間違ってはならないと思っている。

 

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コースコミュの中だけで生活するようになると、

 

普通の兄弟たちがいる〝現世〟に戻ったとき、

 

再び恐怖や不安を感じてコースコミュに戻ってくる、

 

という悪循環に陥ることが多々ある。

 

なので僕は、コミュニティに参加して、

 

何かをやったり、学んだりするより、

 

日々の日常生活の中で出会う、

 

ごく普通の兄弟たちと、すったもんだやりながら、

 

神の愛によって創られた神の子である彼らを赦し、

 

解放していくことで、神を受け入れていきたい、

 

と思っていて、その方が自然だと考えている。

 

 

お偉いわたしが所有する

👆 〝八百屋とごはん あさだ〟で夜ご飯

 

僕達は、自分の両親、息子や娘、職場の上司や部下、

 

または、電車で乗り合わせた人や通りすがりの人、

 

はては、ペットや好きな歌手やネット上の人に至るまで、

 

それらを〝私が所有している〟とどこかで思っている。

 

そして、この所有の意識から苦しみが生まれている。

 

 

僕で言えば、

 

僕のクラスの生徒達は、僕が教えるべき生徒であり、

 

僕が受け持つ〝僕の〟生徒だ、という意識がある。

 

なので、

 

生徒が自分の言うことを聞かずに勝手なことをすると、

 

つい怒りがこみ上げてきて、厳しくあたってしまう。

 

また、別の例で言えば、家庭や職場の中で、

 

皆の期待に応えられないんじゃないか、

 

失敗してみっともない失態をさらすんじゃないか、

 

役に立てていないんじゃないか、または、

 

この人がいなくなったらどうしよう、というような、

 

常に緊張感や恐怖を感じたりするその裏にも、

 

私が所有している私の家庭や職場、が隠されている。

 

私の職場、私の仕事、私の家族、私の大切な人、

 

だ・か・ら、拒絶されるのが怖い、

 

だ・か・ら、失うのが不安、なのだ。

 

👆人気のおばんざい定食〝元気定食〟

 

しかし、実際には僕たちは何も所有できていない。

 

なぜなら、この世の全てのものは神に属しており、

 

当然、僕たちも神に所有されている神の子だからだ。

 

生徒達も、職場の人達も、家族も、大切な人も、全て、

 

神に創られた神のものであって自分のものではない。

 

にもかかわらず、この〝お偉い私〟が神の代わりに、

 

彼らを所有し、彼らを愛し、なんとかしようしている。

 

要は、神のものを奪って、自分のものにしているのだ。

 

 

私のもの、と言い張っているもの、例えば、

 

私の家族、私のお金、私の車、私の能力、を

 

本来の持ち主である神に返却する。

 

僕で言えば、自分の生徒だと思っていた兄弟たちを、

 

彼らは自分のものではなく、神に属するものだとして、

 

彼らを自分の心の檻から神へと解放してやるのだ。

 

兄弟たちを神に委ね、任せることで彼らを返すのだ。

 

👆家から歩いて5分くらいの場所にあり便利

 

先日、パキスタンの生徒が苦手、という話を書いたが、

 

そこには、自分が所有する生徒をちゃんと管理したい、

 

という欲求が働いていて、その思いを神に返すことで、

 

彼らは、僕ではなく、神に面倒を見てもらう存在となる。

 

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ペットが死にかけていようが(誰のことや!)、

 

娘や息子から何の音沙汰もなかろうが(誰や!)、

 

ダンナがどんなダメ出しをしてこようが(誰やねん!)、

 

彼らの面倒を見るのは神であり、自分ではない。

 

先に自分が神から奪って所有したので、

 

上記のようなことが起こるとモヤモヤ苦しくなり、

 

そこから、奪い返される、という恐怖が出てくる。

 

そこから、何とかせねば、という不安が出てくる。

 

 

あらゆるものを所有しようとする自分を認めて、

 

全ての関係性を神へと戻してゆく。

 

そこに永遠の平安がある。