香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ほしいやろ。ほれ、もっとやりたいやろ?

香港島から九龍にあるオフィスまで地下鉄で通勤している。

いつもはあんまり気にならないのだが、今日はなぜか周囲の乗客の

ちょっとした行為が目について仕方がなかった。


朝、タダで配られる新聞を大きく開いて読んでいる人。

新聞を前へ大きく突き出して読むので、前に立つ人の迷惑になる。


手すりにもたれて立つ人。

老人やほかの人が手すりにつかまれない。


あとはヘッドフォンをせず、そのまま音を出してゲームをしている学生。

ショルダーバッグを後ろに大きく回して持つ女性。

前しか見てないので後ろの人にバッグの角が当たっていても気付かないのだ。


そんなに混んでいるわけでもないのに、気になって仕方がない。


兄貴に渡す。そのとき「びゅんっ!」ある感覚が入ってきた。

ああ、このびゅん、な感じ。いつもの信頼していい感覚だ。



自分はこの光景を目で見て、耳で聞いて、それを信じた結果

ハートが感じてその人たちに反応している。

でも、この肉体を通して感じているこの感覚って真実なのだろうか。

エゴが創り出した世界を、エゴが創り出した五感が捉え、

そうやって見せられたものを微塵の疑いもなく信じ切っている。


ええー、これはちょっと、おかしいぞぉー。

五感が映し出す映像に疑惑の念が湧きあがる。


たとえエゴのからくりを見抜いていて、

「わたしはもう肉体としての他者を信じない」と宣言している人でも、

いざ、突然街の中で、または友人から

こういうちょっとした事件を目の前で見せられたら、

その一瞬間は、エゴがしかける偽の世界を信じてしまうだろう。

そして少ししてから思い出して「いやいや、これはエゴのトリックだ。」

と気づいて考えを修正する。


自動的に見たもの、聞いたもの、触れたものをほとんど反射的に信じている。

そうしないと一般生活に支障が出るからだ。


でも、この電車の中の人、みんなエゴのまやかしではないのか。

見えるものをそのまま信じる必要はない。

聞こえるものにそのまま反応する必要はない。


すべての兄弟の奥にある光の存在を観る。


降りる駅が近づいてきた。

別段目の前の人が変わるわけではないが、

自分はもうエゴのいうことを聞いてはいない。


今日は小切手にサインをしたり、お金を数えたり、

新しいオフィスの物件を探したりしながら穏やかな一日を過ごした。


いつもお昼を食べないので、そうしていると3時くらいにすっごく腹が減った。

なにか食べようかなと思ったが、その前にしばらくこの「腹がすいた」感じを

じっと感じてみた。(そう、はっきり言って今日はヒマなのだ!)

すると「これが腹が減っているという感覚かあ。でもなんでこの感覚が起きたら

絶対何かを食べなければならないと思い込んでるんだろう」と思った。


  ほらほら、食べんと死んでまうで。
  
  ほしいやろ。食べたいやろ。奪ってでも食いたいやろ。

  そやけど、食いすぎたら今度は病気になって死んでまうでぇ〜。


まあ、これは極端かもしれないが、おおよそはこんな感じで仕事、お金、健康

などについてもエゴの脅迫を本当だと信じて生活しているのだろう。


父だけを信じる。


結局,僕の秘書であるケリーに「なんか食わしてくれー」と泣きつき、

ビスケットの缶を与えられて、この小さな実験は終了した。