今日は昼まで中国で仕事をして、その後、ライ運転手の車で香港へ戻ってきた。
九龍にある日航ホテルのラウンジで、社長とミーティングをする。
社長はわざわざ今日の朝便で日本からやってきて、深夜便で成田へ帰るという。
ゆったりしたラウンジのソファで、社長に工場の現状を報告する。
全体の士気が下がっており、特に品質管理が機能しなくなっていること。
このまま操業を続ければ、オーダーをこなせない可能性が出てくること。
品管部長(例のISO部長)が〝中国人は4000年前からバカだった〟と発言してしまい、
それに怒った組合がストライキを計画中であること。
明日から始まる視察の概要。 などなど…。
起こっていることは事実として社長に報告する必要がある。
僕はありのままを社長に伝えた。昨日のショックもあるのだろう。
その間、やはり兄貴は不在気味。それに〝世界はない〟も霞んでしまっていた。
と、そのとき、
他者が自分の過去世(又は未来世)である、という事実がバシンッ、と入ってきた。
いま、こうして目の前で向き合っている社長は、かつての自分であることを思い出した。
社長への報告の中に登場してくる人たちも、かつてやっていた自分なのだった。
あるいは、次回やるであろう自分そのものだ。
これまでも、自分と他者が互いに入れ替わりながら、シチュエーションだけを変えて
社長が殿様になったりしながら、何万回も幻想の役割をくるくる演じ続けてきた。
また、これら何万回の輪廻は、過去に起こったことでも、これから起こることでもない。
まさに、今、ここで、同時進行で起こっている出来事でもあるのだ。
ということは、いま、この瞬間に世界はないことを確認し、
眼前にいる人たちが何もしていないことを思い出して、兄貴に修正をお願いすれば、
同時に起こっている何万個のパラレルを削除することができるということだ。
多くの覺者が〝いまここ〟にいる重要性を説いているが、〝いまここ〟は、まさに、
同時に起こっている、罪悪感が映し出す無数の幻想を、一括消去できる場でもあるのだ。
ヨン様にそっくりな社長の顔を見ながら、僕の中に兄貴が戻ってきた。
さっき、僕が報告をした人たちが、かつてやってきた自分で、
次にやる自分だと実感できれば、非難なんかできるはずがない。
〝ごめんね〟と〝ありがとう〟だけの、愛の対象に変化してゆく。
ほんとうに、6月はなんという月なのだ。
兄貴、ごっつあんです!