リトリを終えたあくる日、本当はハレ師匠と一緒に神戸空港まで移動するはずだったが、
僕が寝坊したために、ハレ師匠だけが先に旅立っていった。
ホテルの門のところまで彼を見送り、部屋に戻って荷造りをしていると、
あれ、パスポートがないっ!うわわわっー、ドッキーン!。
確か、本社にいた、あの時まではパスポートはあった。
東京のホテルに忘れてきたのか? それとも本社のデスクに置いた来てしまったのか?
それなら、会社から電話が入るはずだ。
もし、失くしてしまったとして、これからパスポートを申請し直すと何日かかるのだろう?
それじゃあ、水曜日に香港へ戻るのは無理かもしれない。
まずは、だれだれに連絡して…。
ああ、これからの数日間が全部台無しじゃん。
即行、スワットしおちゃんが言っていた〝防空壕〟(静寂の意識)に逃げ込む。
やがて、強化ガラス越しに物事を見ているような感覚になった。
自動的に湧き起こる思考のあれこれを、冷静なもう1人の自分の意識が観察している。
この状況はただの映像だ。起こっていないと宣言しつつ、兄貴に委ねる。
どうあろうと、これは嘘なのだ。それでもドキドキする。
この間違った知覚を訂正してください、と頼れる兄貴に依頼する。
唯一自分が捧げられるのは、この狂気の知覚を修正してくださいと、
兄貴に手渡すことだけだ。
やがて、決まっているシナリオに慌ててもしようがない、という感覚が出てきた。
しばらくあちこちを探し、最終的に、バッグのよくわからないポケットの中から
パスポートは出てきた。不思議と「ああ、よかったあ。」とは思わなかった。
さっき、静寂の意識にいた時、兄貴が置き去りになっていた。
自分が今見ている視野の中だけでこの出来事が起きているような感じになり、
ふわふわとボーっとした感覚に陥りそうになった。
パスポートが出てこようが出てこまいが、それはどちらでもいいのだが、
動揺を解体してもらうためには兄貴が必要だ。
そんな出来事があってからというもの、自分の背後に、
自分を観ているもう1人の冷静な何かの気配を常に感じるようになった。
最初はこれが静寂の意識だと思っていたのだが、どうも違う。
人のような感じのものが、後頭部のあたりから重なるように見ているような気がするのだ。
しかし、それがなにかとてつもなく神聖な存在であることだけは分かる。
ひょっとして、兄貴なのかな? 上手く言えないが、光のような温かさを感じる。
これがほんとうに兄貴だったらいいな。