今日は1日お籠りの日だった。
どこへも行かず、家にあったパンとカップ麺で過ごした。
何となくクラウド録画の『とくダネ!』を見ていたとき、
坂本龍一が咽頭がんだというニュースが流れた。
昨年の夏に喉に違和感を覚えて検査したところ、がんが発見されたのだという。
この報道を見たとき、突然ぐわぐわぐわ、と僕の中に恐怖があふれ出した。
最近、僕も坂本龍一と同じように、喉に違和感を覚えることがあった。
ときどき何かが喉に引っ掛かっているような、むせるような感触があったのだ。
ひょっとして自分もそうなのかも…。そうだったらどうしよう。不安。怖い。
すぐにネットで調べてみる。
この病は50代から60代の男性に多い。→自分近い年齢には来ている。やばい。
食べ物を飲み込む時に違和感や沁みるような感覚がある。→自分にはこれはない。安心。
ヘビースモーカーに多く発症する→自分はたばこを吸わない。だからちがう。
放射線治療でほとんどが完治しする。→そうか。たとえそうであっても対処できる。OK! OK!
すっかり安堵した僕はやっと落ち着きを取り戻した。
ん?ちょっと待てよ。なにかヘンだぞ。
もし、ネットで調べた事柄がすべて自分に当てはまっていたとしたら?
きっと恐怖は倍増していたはずだ。
それに、これからも上記のような〝人の不運を見て自分もそうなるのではないか事件〟
に遭遇するたび、感電した猫のように、あたふたと恐怖と対処の間を
走り回らねばならないのだろうか。
僕たちは普段、事故に遭ったり、誰かに騙されたり、離婚したり、失業したり、老いたり、
病気になったりと、ちょっとした災難に見舞われた人や、
自分に恐怖心を喚起させるような人に遭遇した場合、
〝自分もああなったらどうしよう〟と、恐怖が芽生える。次に、
〝いや。自分はあの人とは違う〟
と、その恐怖を否定するような説得が自分の中ではじまる。
〝だって、こうこうこうなんだもん。だから、自分は大丈夫!〟
と、説得に成功し、恐怖を隠ぺいする。
ああ、自分もやってた。と気づいた。
これをやっている限り、根源にある恐怖は絶対になくならない。
一生、無数の〝微小な恐怖バージョン〟をやり続けることになる。
〝微小な〟と言うところがミソで、反対に大きな恐怖だと思いっきり向き合えたりする。
自分の中に温存していた恐怖が、プログラムされたデータの中に投影され、
それを見て、どうしよう、と思っている。
要は、自分が自分に見せている。
すべてはただの数字の設定であり、自分はそれを真に受ける必要はない。
恐怖のドキドキは、ハートのひゅんひゅんの上に、数字でできた設定が貼り付く、
知覚が誤作動を起こしているにすぎない。
即座に、この間違った、ありもしない知覚を一括修正してください、と兄貴に依頼する。
やがて、恐怖と対処を繰り返すことによって、この幻想世界を継続させようとする
エゴの試みが見えてくる。
なあんてことを言っても、すぐにこの〝恐怖と思い込んでいる知覚〟
が修正されるわけではない。これから何度も兄貴に依頼することとなるだろう。
気づいているということ、そして、兄貴を選ぶということを知っていればいい。