今日は中秋節の祝日で会社はお休み。
ジムへ行こうかな、と思ったが、やっぱり眠くなり、1日家でうだうだしてしまった。
この時期、たくさんの業者さんから、会社にたくさんの月餅が送られてくる。
最近では、中国の食品偽装問題もあり、中国製の月餅を買う香港人は少なくなった。
2、3年前からはアロームが、AKB48のこじはるを月餅大使に任命し、
甘くない月餅を売り出したりしていて人気がでている。
なので、今日は外へは出ず、会社からペチって来た月餅を晩御飯にして過ごした。
2個食べたら胸やけがして、気分が悪くなった。うえっ!
先日書いた、会計事務所の担当者とのお別れ食事会以降、また1段階進んだ感じがしていて、
昨日あたりからは、無意識状態で現実を生きている人たちのことを
〝透明人間〟とみなし始めている。
誤解を恐れず言うならば、そういう分離をして過ごしているいる人たちの事など
もうどうでもいい、自分はさっさと先へ進みます、という感覚になりつつあるのだ。
先週、あのフィリピンに異動になったコンババISO部長が出張で来ていたのだが、
もうその人が目の前にいても、ほとんど存在していないように見えているのだ。
嫌いだから無視する、いやなものは避ける、という意味ではない。
無視する、避ける、というのはまだそれらのことを気にしているということだから。
本当にどうでもいい、関わずらうのも必要ない、気にする、ということすら要らない、
という感じで、自分の中ではもうその存在自体が消滅しかけているのだ。
だから、会っても挨拶さえしなかった。
電車の中や、バスの中で、どんな人を見ても、
もういいや、こんなのには関わらない、という確固たる意志みたいなものが生まれ、
自然とその人たちから離れてゆく自分がいる。
文字にすれば本当に語弊があるのだが、これは決して〝フン!どうでもいい〟
という感じのものではない。また、あるがまま、手放す、といった見え方でもない。
もう、この人たちとは違う、別々の道を行くことになった、
という、ふるいにかけられ、分けられてしまった感覚なのだ。
昔、バシャールが、乗り換え不能になる列車の話をしていたが、ちょうどあんな感じだ。
その時は、ワクワクの列車の中は、全員同じワクワクの人たちだけになる、と思っていた。
が、実際には、一緒に存在しながらも、
違う列車に乗っている人たちが見えなくなってゆくのだ。
これが兄貴の導きやハートの光とどうリンクしているのかは分からない。
ただ、誰かから「それはちょっと違いますね。」と言われたとしても、
この自分がいま感じているこの感覚を優先する。
自分が無限であったことを思い出す。