今日は天気もよく、風もさわやかだったので、アパートに隣接する森林公園で
神戸リトリの時にやったワークの実践音声を聞きながら、赦しを実践した。
というのも、昨日の夜、久々にやっちゃったのだ。(厳密には何もやっちゃってないのだが)
深圳から香港のオフィスに戻り、会社のメールを開くと、
本社のM氏からメールが入っていた。
現在の会社設立の進捗状況についての質問の内容で、
客先へ報告するために必要なのだという。
客先から急かされているようで、少々語気の荒い書き方をしていた。
「表の作り方が分かりづらいので直しておきました。」
「17の項目の意味が分かりません。これでどうやって客に説明するのですか。」
「お客様には迅速さが大切です。」というような内容だったと思う。
いつもは、はいそうですか、くらいなのに、
なぜかこの日の僕は「攻撃された!」と、非常に不愉快になった。
「表は自分が作ったものではないし、あなたの質問には迅速に対応している。」
「CC:がたくさん入っているこのメールに誤解を招くようなことは書かないでほしい。」
みたいな内容の返信を送ってしまった。
すると、すぐさま相手から以下のような返信が来た。
「あなたは私の質問に答えていません。」
「わたしは感情的なやり取りは好みません。」
「CC:にだれが入っていようとわたしの書き方は変わりません。」
M氏は50歳くらい。島根で〝食べられる花〟の製造販売の社長をしていたが、
数ヶ月前に倒産して、以前からの知り合いだった社長を通じて入社してきた人だった。
まあ、昔の自分だったらここから延々とバトルが始まるのだろうが、
今の自分はいくらなんでもそこまでではない。
ここで会話を打ち切り、相手に直接電話をした。
その時は、彼が聞きたい答えだけを知らせて電話を切ったが、
その後、あの強烈なハートのひゅんひゅんならぬ、ハートの〝ネガティブびゅんびゅん〟
が上がってきた。
しかしながら、どうしてこのメールを読んで〝攻撃された〟と思ってしまったのか。
大勢の人がCC:で入っているメールで恥をかかされた、と思ってしまったのか。
相手は少々語気は荒かったものの、ちゃんと敬語で、冷静に質問をしてきていた。
普段、こういうとき、必ず兄貴からの止めが入るのだが、このときはもう、
1秒くらいで、自動反応のように無意識に返信していた。
家に帰っても、なんかみぞおちが〝びゅんびゅん〟(ひゅんひゅんではない)して落ち着かず、
テレビを見ていてもすぐにさっきのメールでのことを考えてしまう。
そんなわけで、今朝ジムへ行った帰りに、アパート下の森林公園でワークを始めたのだ。
さわやかなそよ風、小鳥の鳴き声、木々の葉擦れの音。
これらの音が重なって聞こえるよう、音声を絞ってリトリのワークを聞く。
みぞおちに感じている「M氏(本当は父)を攻撃した(または、された)。」
と思い込んでいる罪悪感によって歪められた〝びゅんびゅん〟を、じっと感じ続ける。
この〝びゅんびゅん〟。本当に馴染みがある。
失恋したとき、失業中だった時、愛犬を亡くしたとき、何かの試験に落ちた時、
誰かとケンカしたとき、いつも僕たちは、たったひとつ、
この〝びゅんびゅん〟だけを使ってきた。
ほかにはない。どんな辛いことがあっても、この一種類の〝ネガティブびゅんびゅん〟のみ。
ああ、純粋なハートの知覚を歪めて、いつもこの感覚だけを使ってきたのだな、と思った。
それからはただ兄貴に渡し続ける。自分ではやらない。丸投げだ。
「この間違ったウソの知覚を、正常なハートの愛の知覚に修正してください。」
しばらくすると、今回のことも導かれていたのだと分かった。誰に?兄貴にだ。
自分の中に温存させている〝父から分離した〟と思い込んでいる罪悪感を、
またひとつ浮き上がらせ、消去させるために、兄貴がやったのだ。
実際、M氏なんて存在してない。見えている映像は全部ウソなのだ。
ウソの映像は赦すしかない。赦して、故郷へ帰るために使うのだ。
最近、すこしお花畑っぽく〝うわずっている〟感があった僕に、兄貴がM氏を使って、
「ほれほれ、久々やろ。設定がどうのこうのって最近うるさいけど、その前にほれ、
ちゃんと赦さんかい。」とやってくれていたのも分かった。
ハートはひとつしかないのに、知らない間に、M氏と自分との間に違いを作り、
分離した意識で彼を見ていたのだ。
僕にそれを気付かせるために、彼は一役買ってくれたのだ。
そう思い至ったとき、とてつもない愛と感謝が込み上げてきて、泣きそうになった。
(はい。正直に言います。ほんとうは泣きましたっ!)
存在していないものに意味をつけるのをやめる。
解釈するのをやめる。
ただ、無い、として兄貴に明け渡すのみだ。
兄貴にとどまる。もうエゴは選ばない。
今回の事で、少しぶれていた軸がパンッと戻った感じがする。