引き出しを整理していたら『生命の書』なる分厚い封筒が出てきた。
すっかり忘れていたのだが、10年くらい前、マカオ在住の、すごい霊力のある、
江原啓之さんのような大師に書いてもらったのものだった。
当時は、次の仕事がなかなか決まらず、面接にも落ち、くよくよ悩んでいた時期で、
友人に相談すると、マカオにものすごくよく当たる大師がいるから見てもらえ、といわれ、
藁をもすがる思いで電話をしたのだった。
電話で生年月日と名前を告げると、3週間ほどしてから電話がかかってきて、
生命の書ができたから取りに来いと言われた。
指定された日時に香港のアパートへ行ってみると、髪を七三分けにした、小柄な、
役場のおじさんのような男性が出迎えてくれた。
弟子の人か何かだと思っていたら、えっ、この人が大師?
彼は30枚くらいの便せんにぎっしりと書かれた僕の運命を、穏やかな笑みを浮かべながら、
ひとつひとつ丁寧に解説してくれた。
過去の運命を見てびっくらこいた。
僕のおばあさんが亡くなった年と月、バイクで事故を起こした年と月、
海外へ始めて行った年と月に場所まで書いてあり、すべてあたっている。
あいまいな表現は一切ない。
当たってるかと聞かれ、うなづくと「じゃあ、未来も多分当たってるよ。」と言われた。
未来10年間の予想は詳しく書かれ、それ以降の運命については、
大きな出来事だけが、10年単位で大まかに書かれたあった。
それによると、何年何月に大きな部屋に引っ越しするとか、
何年何月に東京の会社に入るとか、ベトナムに行って仕事をするとか、挙句の果てには、
書籍を出版するとまで書いてある。
当時、職が決まらず、ピーピー言っていた自分には信じられないことばかりだ。
だが、今、振り返ってみると、すべてあたっていた。
「人はね。すでに起きてしまった出来事をなぞっているだけなんですよ。
まあ、それを言っちゃあおしまいだから、言わないことにはなっているけれど。」
と大師は言っていた。
しかし、そんなことを言われても当時の僕には理解などできるわけがない。
いまは、もうこれから未来に何が起こるかは、あまり重要ではなくなってきている。
未来を変えるのではなく、消去してゆくのだ。
一つ一つの出来事を〝ない〟と認めて終わらせてゆくだけだ。
もう、本当に何もしない、ということを真に理解し始めている。
和歌山のリトリの時、本当に何もしなくていい、というハレ師匠に
「そんなこと言っても、今も現にここで何かしているじゃないですか。」
と食ってかかっていたっけ。でも今はわかる。
もう本当に何もしなくてもいい。空間を流すだけ。それが赦しだと。
さっき、神戸リトリでの音声を聞いていたのだが、
「本当に何もする必要はない。もう、やめる。それだけでいい。」と力説するハレ師匠に
「じゃあ、椅子に座って微動だにせず虚空を見つめているのですか」
と質問する僕に向かって
「そうですね。それでもいいです。」ときっぱり答えるハレ師匠の言葉の意味を、
この〝生命の書〟のおかげで、真に感じることができた。
兄貴、やるなあ。
あっ、もうひとつびっくらこいたことが。
昨日、びゅんびゅんしながら赦した、あの〝上から新入り営業マン〟だが、
今日電話で話したら、全く別人のような優しい穏やかな人になっていた。どういうこと?