香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わたしはあなたでできている


↑バルセロナでワクワクで買ったスタンド(笑)

土日はもちろんお籠りの日。

創作に明け暮れていた、と言いたいところだが、

そうでもない。煮詰まっている。


心理学者ラカンの理論を放送大学でやってたので、

少しだけ見た。なるほどな、と思った。

自分は他者によって形成されている、という理論だ。

自己と他者は鏡像関係によって創られている。


自分が思っている自分。自分が思っている他者。

他者が思っている自分。他者が思っている他者。

肉体は二つだが、本当は4人いるらしい。


どれも本当ではない、と今ならわかる。


幼児の時、

「のぶちゃん。マンマのお時間ですよ。」

と言われ、ああ、自分はのぶちゃんなんだ認識する。

「のぶちゃんは、転んでも泣かない。いい子だね。」

と言われ、自分は転んでも泣かないのだ、と思う。

「のぶちゃんはあの人より背が低いね。」

で、自分はあの人より背が低いのだ、とインプット。

それが無数回行なわれ、わたし、が形成される。

「人がどう言おうが、わたしはわたし。」

というのも、他者の決断や意見に対して、

自分は自分、と決めているにすぎない。

何でも自分で選択しているように思っているが、

全ては、他者が創った自分が決めている。


自我の世界に無数の他者が不可欠なのは、

自我は他者なしでは維持されないからなのだ。


人のことは気にしない。

どうでもいいよ、人の事だし。

とクールに言い放つ人がいるが、そんなの不可能だ。

他者によって形成されている自分は

他者の事が気になって気になって仕方がない筈だ。


それで、今、兄貴がやってくれているのは、

その他者を消してゆく作業なのだな、と思った。

他者を赦すことは自分を赦すこと、というのも頷ける。

それに、取り消しは自分では絶対にできないことも…。

だって、わたしは他者の視線で創られているのだから。


そう言う意味で、明け渡しを兄貴に依頼するとき、

他者なしでは完結しない、ということになる。

山(部屋)に籠って赦しはできないということだ。


ラカン理論はすごく難解だと言われている。

素人の僕にわかったのはここまでだったが、

なんとなく面白かった。


4月ももう後半だ。今年は怖いくらい速く過ぎる。