土日はもちろんお籠りの日。
創作に明け暮れていた、と言いたいところだが、
そうでもない。煮詰まっている。
心理学者ラカンの理論を放送大学でやってたので、
少しだけ見た。なるほどな、と思った。
自分は他者によって形成されている、という理論だ。
自己と他者は鏡像関係によって創られている。
自分が思っている自分。自分が思っている他者。
他者が思っている自分。他者が思っている他者。
肉体は二つだが、本当は4人いるらしい。
どれも本当ではない、と今ならわかる。
幼児の時、
「のぶちゃん。マンマのお時間ですよ。」
と言われ、ああ、自分はのぶちゃんなんだ認識する。
「のぶちゃんは、転んでも泣かない。いい子だね。」
と言われ、自分は転んでも泣かないのだ、と思う。
「のぶちゃんはあの人より背が低いね。」
で、自分はあの人より背が低いのだ、とインプット。
それが無数回行なわれ、わたし、が形成される。
「人がどう言おうが、わたしはわたし。」
というのも、他者の決断や意見に対して、
自分は自分、と決めているにすぎない。
何でも自分で選択しているように思っているが、
全ては、他者が創った自分が決めている。
自我の世界に無数の他者が不可欠なのは、
自我は他者なしでは維持されないからなのだ。
人のことは気にしない。
どうでもいいよ、人の事だし。
とクールに言い放つ人がいるが、そんなの不可能だ。
他者によって形成されている自分は
他者の事が気になって気になって仕方がない筈だ。
それで、今、兄貴がやってくれているのは、
その他者を消してゆく作業なのだな、と思った。
他者を赦すことは自分を赦すこと、というのも頷ける。
それに、取り消しは自分では絶対にできないことも…。
だって、わたしは他者の視線で創られているのだから。
そう言う意味で、明け渡しを兄貴に依頼するとき、
他者なしでは完結しない、ということになる。
山(部屋)に籠って赦しはできないということだ。
ラカン理論はすごく難解だと言われている。
素人の僕にわかったのはここまでだったが、
なんとなく面白かった。
4月ももう後半だ。今年は怖いくらい速く過ぎる。