香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ポンポンスクリーン



てっちゃんち二日目。

いつものように昼過ぎに起き、お風呂の王様へ行って、

てっちゃんと星谷文庫について語り合う。

『ジンジャー・タウン』を電子書籍にして、

皆様に提供しようという計画…。

ハードな部分はよくわからないのでてっちゃんにお任せ。

語りすぎて、湯あたりしてしまった。


その後、さおりっぺを家の前で拾い、一緒に角城へ…。

新鮮なお寿司屋やお刺身を大量に仕入れ、

さおりっぺが作ってくれた

赤味噌のお味噌汁と一緒にいただく。

もう、香港では決して味わえない至福のひととき。

さおり姉さん、ありがとうございます。

それで、てっちゃん大師降臨であるが、

今回はさおちゃん大師もやってきた。


まず、自分の目の上にポンポンと貼りついている

幻想のスクリーン以外は全部光の世界なんだ、

神の光だけに包まれているのに、

僕たちは目の上にポンポンとサロンパスを貼りつけ、

そこに映る映像の中だけを真実と思い込んでいるんだ、

というふうな話をしたとき、てっちゃん大師が、

「目に貼りついている〝サロンパス〟をはがすことが、

 目醒めることではなくて、そのスクリーンを見ている

 自分の意識自体を削除してもらうことが目醒めなんだ」

と言った。


サロンパスのスクリーンに映る映像からやってくる

思考や、感情や、思いを、光に捧げて取消し依頼するのではなく、

その行為をしている意識自体をやめようと意志すること、

それが、本当の取り消しだ、と言うのだ。

そうでなければ、

「自分はいま、純粋非二元に目覚めようとしている」

という、すり替えのストーリーを生きてしまう。


では、どうやってひとつの意識をも捧げればいいのか、

と問うと、さおり大師が言った。

「どうやってやめればいいのか、という考え自体が、

 個を強化している。どうやって目醒めるかと言う

 問の奥には、必ず〝自分が目覚める〟という個が隠れている。

 そんな個はない。もうすでに〝ここにある〟のだから」


さおり大師が〝ここ〟と、耳の横で両手を背後へ押しやる

ジェスチャーをしたとき、僕の中にガーンと何かが入ってきた。

お金、欠乏、仕事、病気、人間関係、恋愛、家族、

そんなものは思考の中でしか存在していない。

それらのことで、どんなに苦しんだとしても、

それをポンポンと貼りついた映像の中から取り出し、

〝これは自分の苦しみ〟としてチョイスして感じているだけだ。

そして、その自分を強化しているのが肉体なのである。


スクリーンが貼りついていも関係ない。

もう、自分の周囲を取り囲んでいる光の世界に存在していい。

存在していい、というより、もともとそこにしかいなかった。

コップをただダイレクトに〝ハートの愛そのもの〟で

感じているだけの世界。

コップとうんこの間に全く意味を見出さない世界。


そうなるにはどうしたら、という質問自体がおかしい。

そこにいるのだから、そこにいるだけでいい。


赦す以前に、明け渡す以前に、手放す以前に、

もとからそこにいるのだ。だからそこにいる。それだけ…。

隠ぺいした罪悪感をすべて手放さなければ、

神に戻れないとか、赦せてるかどうかを、

先生に訊いて教えてもらう必要もない。

聖霊にどうのこうのもない。

そういう方便は使ってもいいが、使わなくてもいい。


ただ、ハートにいるだけだ。

もともといるだけの場所にいるだけだ。

そうなると、

やってくる出来事が、起こっているだけのものになる。


そして、そこは〝いまこの〟瞬間に在り、

〝いま〟にしか神の国(ハート)は存在していない。


あの人に何か言われた、こんなに傷ついた、病気になった、

起きていると思っていることは、個人的なストーリーで

起きているのではなく、全体としての意識が

起こしているに過ぎない。

ただ、その全体でただ起きていることを、

〝わたしの苦しみ〟として取り込んでしまっているに過ぎない。

故に、全体が表現している苦しみも、歓びも、悲しみも、

自分に起こっているわけではない。


ただ、ひとつの意識ではなくて、ちゃんとハートにいること、

それが大事だ。


ああ、これが言語の限界、

二人の大師の言うことを、これ以上言語化できない。

ぜーぜー。さあ、三日目突入!