いつものようにフェリーで佛山に着いたのだが、
待てど暮らせど、お迎えの車が来ない。
電話をすれば、総務の女の子のチョンボだった。
「なにやっとんじゃ!おんどりゃ!こんどりゃ!」
なんて、僕が言うわけはない。
ラッキーとばかり、車が到着するまで、
二階の喫茶店で、コースを読んで過ごした。
〝実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。〟
さわやかな秋の陽光に満ちた喫茶店で、
この言葉をずっと噛みしめていた。
昨日レジで並んでいるときに覚えた感覚は、
非二元的に言えば、
〝起こっていることは全体の表現でしかない。〟
ということを体感した瞬間だったのだと思う。
コースの表現を借りれば、
〝全てを包みこむもの〟
の位置から見た視点だった、のだと思う。
意味づけをする側も、意味づけされる側も、
憎悪するほうも、憎悪されるほうも、
殺す者も、殺される者も、
一者の意識が全体で表現することで起こっているのだ。
どちらに罪があり、どちらが間違っている、
という事もない。
そこでは、相手や自分といったものも存在しえない。
もちろん、肉体の世界での法を犯せば罰せられる。
だが、それさえも、一者が全体としてやっている。
全てを包み込む愛の位置から、全体的に赦す。
いま、赦しも、この立ち位置から実践している。
個人としての〝自分〟で赦すのではなく、
全体の表現者として、神にまるごとを委ねるのだ。
僕の場合、
スピリチュアルだけを教えて生活している人や、
自由業、または主婦の方のように、
生活をある程度自由に調整できる身とは違い、
社員として企業に勤務しているので、
普段は企業理念に即して行動しなければならない。
なので、どんなに外向きの仕事をしているときでも、
どんなに、社長からの指示が調和とかけ離れたものでも、
常に霊性を保ち、とっさに赦しを思い出せる必要がある。
例えば、職場で、
突然兄弟から赦しのシナリオが差し出されたとき、、
自分と兄弟という対峙した関係で赦そうとすると、
どうしても、起こっていることや相手の言葉を
強烈に意識してしまい、反射的に反応してしまうのだ。
なので、起きているように見えていることを、
自分個人が作り出しているものではなく、
全体が表現していることとして赦してゆくことで、
赦しをしている主体が、Aさん、Bさん、
の世界から出てしまい、
全体で動いているだけ、
起きていることが起きているだけ、という感覚になり、
明け渡しやすくなる。
そして、最後には、この一者の意識自体も、
天国へまるごと捧げる時が来るのだろう。
だが、10月10日以降、
自分が今、身を置いている会社という空間が、
自分の周波数と日に日にそぐわなくなりつつある。
きゅうきゅう、と締め付けられているような感じで、
窮屈感がハンパない。
このまま、この場所で赦しを続け、削除してゆくか、
新たな方向へ向かうのか…。
ただ、いまの時期が、非常に大事なターニングポイント
であるような気はすごくしている。
聖霊兄貴。
自分には分からないので、
どうか、よきように導いて下さい。
全てを全託します。
まあ、本当はこの自分というのもないので、
何をしたっていいのだが…。
自我の思考ではやらない、と決めた。
ふぁちゃんにゲイリーの三冊目を渡してきた。
今度行ったら、ノ二ジュース飲んでたりして。(笑)
とまあ、
とってもノンデュアリティな金曜の午後は、
こんな感じで、静かに過ぎて行くのであった。(笑)