アラン・コーエンと言う人が書いた
『今まででいちばんやさしい奇跡のコース』
と言う本を読み始める。
読みやすい本だが、途中でやめてしまった。
まず、前置きがあまりに長すぎる。
まあ、題名からして長すぎる感はあるのだが…。
しょっぱなに「誰々に捧ぐ」みたいな文があり、
次に「日本語の出版にあたって」という解説文、
それから「はじめに」という作者の紹介がきて、
さらに「読者の方々へ」と題した文が続く。
そこから、目次がずらっと並び、
やっとここから本文かと思ったら、
「プロローグ」として、
この本を書くきっかけみたいなものを書き連ね、
最後にダメ押しのように「ACIMとは何か」
というコラムを付け加えた後、
ようやく第一章本文がはじまるのである。
もう一言で言って〝ウザい〟。
はっきり言って引っ張りすぎ。
内容もACIMの教えを使って日常の諸問題を解決、
みたいな感じで、赦しは出てこない。
で、読み続けられなくなった。
でも、神への罪悪感が転じて〝ウザい〟となり、
それを本にぶつけているんだね。
本ならいくらでも悪態がつける。
ちゃんと認めて、取消依頼するよ。
それに、
これもネット書籍販売の弊害かなと思ったりする。
ちゃんと本屋さんで中身をめくって確かめていたら、
きっと、この本は購入していなかったと思う。
ただ、
聖霊を選ぶか、エゴを選ぶか、というくだりを、
愛を選ぶか、恐れを選ぶか、
という表現に換えていたりして、
一般的には解り易く、売れ筋の本ではないかと思う。
午後からマッサージに行った。
マッサージをやってもらったことのある人なら
経験があると思うのだが、
マッサージが始まった瞬間から、
その気持ちよさに酔う間もなく、
さまざまな思考が頭の中をぐるぐるしはじめ、
そこからいろんな感情が浮上してくる。
今日もまさにそんな感じで、
マッサージ店の予約の段取りが悪かった事もあり、
背中をマッサージしてもらいながらも、
黙々と聖霊兄貴に明け渡し続けていた。
そのとき、ふと思ったのが、
「俺って聖霊を私物化してるなあ。」
ということだった。
俺の兄貴、俺の聖霊…。
聖霊、お願いします。
聖霊、取り消してください、修正してください。
何もわかりません、と無条件で委ねていながら、
答えをください、教えてください、
目の前の状況が変わることによって見せてください、
と、お願いしている謙虚さの裏に、
要求しまくっている自分がいたりする。
そして、その結果が出ると、
聖霊に導かれたんだねえ。
聖霊が答えを教えてくれたんだ。
そのとき聖霊の声が聞こえてきて、云々…。
と、まるで個別の自己や聖霊が存在するみたい…。
もちろん、答えがわかっていいと思う。
聖霊からのメッセージが聞こえることで、
肉体の自分にちゃんと理解が入ることもあるだろう。
現実が変わり、聖霊への信頼度が増すことは、
神の愛を受け入れる上でとても重要だとも思う。
ただ、なんて言うか、純粋な信頼ではなく、
「導いて!導いて!答えて!答えて!」
という、聖霊を取り込んでる感を感じてしまうのだ。
たとえ、赦す事柄が〝あの人から言われたあの一言〟
であったとしても、それを〝私が感じたこれ〟
として、個人的に赦すのではなく、
全体で表現している世界を丸ごと明け渡すことが
大切だな、と思った。
でないと、どうしても僕の場合、
〝結果にコミット〟してしまうからだ。
ただ、これも人それぞれであり、
聖霊にいろいろお願いしたり、擬人化したほうが
やりやすい人はそれでいいと思う。
そういう意味で、
世界人類が平和でありますように、
という世界平和の祈りってよくできてるなあ、
と感心してしまうのである。
世界平和の祈りの観点からすれば、
〝あの人から言われたあの一言でムカつくわたし〟と、
〝イスラム国に殺されかけているシリアの人たち〟は、
全体として起きている事の一部にすぎないので、
世界全体でやっている事象の表れとしては、
両者は同じものであり、同等なのだ。
だから、
〝あの人から言われたあの一言でムカつくわたし〟
を赦すことで、
〝イスラム国に殺されかけているシリアの人たち〟
も同時に赦していることにもなる。
こう書いてしまうと、じゃあ、平和な日本で、
あの人から言われた一言にムカッを赦していた方がいい、
となると思うのだが、赦しの観点から見れば逆だ。
実際には、どちらが赦し易い、などは無いのだが、
敢えて言うなら、これは誰が見ても酷い、と解かるので、
眼前でイスラム国に殺されかけている人を赦す方が簡単だ。
だから、わざわざイスラム国へ行く必要などは無く、
あの人に言われた一言にムカッを赦すことで、
シリアが平和になっていったりする。
そんなことを考えながら、
マッサージを受けていたものだから、
気持ちよかったのかどうか、ちっとも分らなかった。