「感じる、なんてもんじゃないよ!
愛だよ!もう、愛そのものだよ!」
と、兄弟てっちゃんは興奮気味に語った。
僕が書くと、
彼の真意を歪めて伝えてしまうと思うので、
詳しい内容は割愛するが、これまでどちらかと言うと、
神の愛を感じることが苦手で、
僕やさおちゃんがハートの愛について話していても、
すぐに話を逸らせていた彼が、
いまこうして、愛を叫んでいるのはすごいと思う。
ただ、本人には水を差すようで申し訳ないが、
経験上、このハートに触れた至福感や、
〝蜂蜜なめたあ!〟というバコンと来た感じは、
すぐに体験の記憶へと姿を変えてしまうので、
あとは地道に実践してゆくしかないのだが、
それでも、その体験があるのとないのとでは、
以前と同じ設定のシナリオが来ても、
全く違う見え方をするようになると思うのだ。
〝ここ〟では何も起きていないことを真に自覚し、
常に、聖霊兄貴の愛を延長させて見ることができる。
おめでとう!(← from Ayako)
午後、銀行へ出かけた帰り、
パシフィックコーヒーでボーっとしていた。
勉強している人、スマホで映画観てる人、
おしゃべりに興じるおばちゃん集団、
パソコンを打つ営業マンのお兄さん、など、
考えをすべて排除し、ただ夢うつつな感じで、
この風景を〝決断の主体〟の位置から眺めていた。
てっちゃんから教えてもらった方法も試してみる。
静かに目を閉じ、
鼻の穴を空気が流れる感覚や、風が眼球に触れる感覚、
足の裏が痒くなる感覚や、服が皮膚に擦れる感覚など、
肉体のあらゆる感覚をスキャンするように感じていく。
そのときのコツは、考えを入れないこと。
痒い→ 嫌な感じ → 掻きたい → 掻く
というような自動反応の流れに乗らず、
冷徹なまでのクールさで、ただ感じてみる。
「ああ、これが〝今にいる〟という感じなのだな。」
と、ピンとくる。
「この感じを見ているのは?ああ、決断の主体だ!」
と、ビビビとくる。
最後にそれらの感覚ごと、決断の主体の位置から、
兄貴へと、放出してゆくに任せる。
やっぱり〝ここ〟では起きてない。
〝ここ〟で何かやっても無駄だ。
決断の主体が投影しようとピコピコやりだす前に
聖霊を選んでいる感覚。
しばらくしてから、目を開けてみた。
空間に、ものすごい数の粒子が蠢いている。
飛んでいる、というより、
空間が粒子に分解されていっている、という感じだ。
肉体に受ける感覚は、
決断の主体とリンクしていると確信する。
いままで外にばかり意識を向けていて、
肉体の感覚には、大きな痛みとかでない限り、
ほとんどスル―状態だった。
頭かゆいっ → 自動的に右手で頭ごりごり→終わり
という感じ。
肉体は無い、肉体は幻想だ、でやってきたが、
ここへきて、
エゴを明け渡し、聖霊に解体依頼をしてゆく上で、
肉体に於ける感覚はすごく重要なのではないか、
と直感した。