急性胃腸炎で入院している友人を見舞いに、
ワンチャイにある律敦治病院へ行って来た。
この病院を訪れるのは2回目だ。
僕がある日系企業で人事部長をしていた2001年、
ある女工さんが、肺結核の疑いでこの病院に入院した。
この律敦治病院は肺結核治療で有名な病院でもある。
当時はまだ香港にも工場は残っていて、
僕が勤める会社でも多くの女工さんを雇用していた。
彼女の病気は伝染病でもあり、長い養生も必要なので、
会社としてはいったん雇用契約を終了させておきたい。
だが、法律上、本人の同意なしに解雇はできず、
結局、製造部長と一緒に入院中の彼女を訪ね、
2年分の給与と倍額の解雇補償金を支払うことで、
離職同意書にサインをもらうことができた。
このとき、彼女はかなり具合が悪そうで、
終始、咳込んでいた。隣で年老いたお父さんが、
じっと僕たちの顔を見つめていたのを覚えている。
それから3日後に彼女は息を引き取った。
本当は結核ではなく、肺がんだったという。
まさか亡くなるとは思っていなかったので、
僕は死ぬほど驚いた。
それからというもの、
女工さんたちは僕にとてもよそよそしくなった。
裏で僕を罵る人もいたようだった。
しかし、その工場も1年後に中国へ移管され、
ほとんどの従業員は解雇されることになった。
その解雇者の人選をし、実行したのも僕だった。
工場が閉鎖された数日後、
あらゆる電信柱に僕の名前を書いたビラが貼られた。
ビラには、殺し屋を雇って殺してやる、とあった。
本社からは、安全のためにと、帰国命令が出た。
今日、久々にこの病院を訪れ〝肺科専門病棟〟
の表示を見たとき、当時の出来事がよみがえってきた。
院内を歩きながら、ひとり聖霊に委ね続けていた。
いま当時を振り返ってみると、
いかに当時の自分が 江後田自我男(えごたじがお)
だったか窺い知ることができる。
狂気を信じ、そうするのが当然だと思っていた。
兄弟たちを分離した罪人とみなし、
先に罰を与えることによって、
自分を防衛しようとしていたかがいまなら分かるが、
当時はこうするのが使命だ、とさえ思っていた。
だって、僕は人事部長なんだから…って。(笑)
まだ、僕の中にも多分の江後田自我男が潜んでいる。
だが、その勢力は日に日に弱体化しつつある。
今日は日曜日。今度は自分の病気で病院へ行く。
この話はまた明日に、ということにする。
それから、本日初登場の江後田自我男くん。
これからもちょくちょく出てくるので、
妹の自我江 共々、よろしくね!