↑月末現金チェックの日。人民元やばそう。
通勤電車の行き帰りの時間を利用して、
アマゾンで購入した本を読み進め(させられて)いる。
朝はデイビッド氏の『覚醒へのレッスン』、
夜はジョーイロット氏の『これのこと』という本。
本の読み方も変化してきて、
1ページ目から順番には読まなくなった。
というか、読めない。
聖霊兄貴からぱっと読むべき場所を指定される感じで、
逆らって初めから読もうとすると、
パタン、と意識が中断されてしまう。
各ページも、1行目から読むのではなく、
ページを開いた途端、大切な箇所に自然と目が行き、
そこにマーカーを引く、という具合である。
これは明らかに、これまでの自分の読み方とは異なる。
満員電車で立ったままマーカーを引くなんて、
そんな面倒なこと、以前の僕だったら絶対にしないし、
本を飛び飛びに読むのも性格的にありえない。
で、
今日マーキングした個所を列挙してみる。
〝わたしの子供たち、戻ってきなさい。
全ての夢を永遠に手放しなさい。〟
〝自分で決断を下さない、という意志を持って、
1日を過ごしましょう。
神聖な流れに身を任せ、誠実さを保ちます。
ホーリースピリットが計画や迅速な指示を与え、
あなたはそれに従うだけです。〟
〝あなたが奇跡を行なうとき、それに適合するように、
わたしが時間と空間の両方を調整します。〟
〝あなた自身に準備ができているかを
心配しないでください。
わたしの準備を信頼してください。
わたしがあなたを通して奇跡を行ないます。〟
〝過去からの完全な脱出、未来への完全な無関心〟
ロイ・ジョーイの『これのこと』という本も、
上記のような感じで読み進める。
非二元を体験した著者が書いた本だが、
「これだ。まったく今あるとおりのこれ。
そして、今のこれ。いつも、これ。
あるという単純さだけの、これ。」
とまあ、このフレーズだけで全編走り抜けるという、
王道非二元の一冊だ。
書いてあることは単純明快なのに、
なに?このモヤモヤ感。
中途半端な便秘のように、なあんか、すっきりしない。
お花畑状態というか、意識の白痴化状態というか、
かにかの力が欠如しているような感じ。
しばらくして、わかった。
それは神へと向かう力の方向性だ。
父が待つ故郷へ戻る際には、ある種の力強さが必要だ。
聖霊を選択するにしろ、委ねるだけにしろ、
ただ沈黙し(←お前が言うか!)、
そちらの方向へ凛として向いていなければならない。
それが、実践であり、明け渡しだ。
意志することがエゴを削除するのだ。
そして、この本からは、
以下のようなインスピレーションも受けた。
ぱっと顔を上げて辺りを見る。コップが目に入る。
あっ、コップだ、と認識する以前の、.
0.00000001秒の空白の領域。(ゼロの数に意味はない。)
それが〝これ〟であり、聖なる瞬間であると…。
その0.00000001秒(これ)は、
毎瞬毎瞬立ち顕われているのだが、
肉体の自分が〝これ〟を捉え続けるのは不可能だ。
それで、この0.00000001秒以外、全て聖霊に委ね、
削除してもらうことにより、
次第に0.00000001秒だけの世界が顕現されてくる。
それが父からの最後の一歩を受け入れるための
準備なのだ、と…。
読んでいるうちに、
〝これは非二元の本〟とか、
そういうことを言う必要はないのだな、
と思えてきた。
要は自分がどう捉えながら読むか、であり、
ただ〝いま、ここにある、この本〟でいい。
あなたはもう何もしなくてよい、
できることなど何もない、何も考えなくてよい、
直接の経験だけを観察して兄貴に委ねていなさい。
あなたがやることなすこと、言うこと考えること、
全部ウソであり、間違っている。
ただ、
凛として力強く、意志を持って、
神の方向へ向いていなければならない。
神へ向くことを決断し続けること、
それが赦しだ。