家の書斎でまったりと、文章を書きながら過ごした。
昼過ぎに、裏の森から「みみーん!」と、
弱々しい蝉の第一声が上がったので、
ああ、ついに香港の夏が始まったんだな、と思った。
今年の夏は、どんな夏になるのだろう。
とてつもなく爆発的な変革が起こるような予感がする。
外部的に、ではなく、内部的に、ではあるが…。
最近、本当に、
全ては自分の中だけで起こっていることで、
外は結果でしかなかったんだな、と実感している。
それによって、
ああよかったあ、救われたあ、とも思う。
内部を選びかえることで、投影を削除してゆく。
年齢も年齢だけに、
内部を変えることで、もっと素敵な投影を…、
とは、思わなくなった。
どんなに素晴らしい現実を引き寄せても、
必ず最後は分離して終わる。
だって、ここはVR世界だから…。
ああ、店じまい。店じまい。長居は無用じゃ!
そんな中、近頃特に〝うわっ〟と出てきているのが、
自分と同じように、スピリチュアルを学んだり、
教えたりしている兄弟を〝批判したい〟〝比較したい〟
という思いだ。
奇跡講座、バシャール、ヒーリング、非二元、
ヴィパッサナー瞑想、量子宇宙論、悟り系、など、
現在、様々な人が、
様々なスピリチュアルメソッドを学んでいる。
そんなとき、僕たちが一番やってしまいがちなのが、
今自分が信じている信条を機軸にして他を解釈し、
これはこう、あれはこう、と決め付けてしまうことだ。
〝判断しない〟〝人を変えない〟〝差を見ない〟
という概念は、今のスピ界では定番となりつつあるが、
頭では分かっていても、実践するのはなかなか難しい。
ていうか、日常でこんな境地に至るのは不可能だろう。
例えば、
YOUTUBEで誰かのスピ映像を見ているときや、
シェア会などで他の人のシェアを聞いているときに、
〝この人はまだこんな段階なんだあ。〟
〝これはちょっと違うんだよね。〟
と、心の中で自動反射的に裁いていたりする。
または、講義をしている教師本人が、
〝誰々さんがね…〟と差を語っていたりする。
さっき、あるコース系YOUTUBE映像の中で、
とある亡くなったばかりの学習者の方の話題が出た際、
「この方は、今回のカリキュラムでは、
ここまでだったけれど、
次回、またこの夢の世界に戻り、
レッスンを続けていかれるうちに、学びが進んで、
いつかは終わるときがきて…云々。」
と、教師の人が言っているのを耳にしたとき、
自分の中から大きな怒りがこみ上げてきた。
その人が今どういう状態であるかなんて、
そんなこと、本人にしか分からないことではないか。
ひょっとすると、亡くなられる10秒前に全てを赦せて、
永遠に父が待つ故郷へ帰還しているかもしれない。
そんなの誰にも推測できない。
それなのに「この人はこう…」と決め付け、
論じるなんて、傲慢以外の何ものでもないではないか、
と、自動的に憤慨してしまったのだった。
そのとき、バンッ、と聖霊兄貴から頭をはたかれた。
自分はここまで進んでる、あの人はまだあそこだ、と、
兄弟の中に〝学びの差〟を見て分離していたい、
というエゴの想いをYOUTUBEの中の教師に投影し、
イチャモンをつけている。
エゴのストーリーをくっつけて怒っているのは、
まぎれもなく自分だった。
何のことはない。
この怒りは自分のものだったのだ。相手は関係ない。
なぜなら、もし自分が分離を投影していなければ、
この映像を見ても何とも思わないはずだからだ。
精神的な学びとは全く関係のない、同僚や普通の友人
に対しては、いたって寛容に赦せるのに、
こと、相手が同じ学びをしているスピ仲間となると、
途端にエゴってしまう。
まあ、イスラム教やユダヤ教を見てもわかるように、
教条的信念からくるエゴはなかなか始末におえない。
無意識がいとも簡単に〝これだけは別〟と、
選別してしまうのだ。
自分は正しい、相手に勝ちたい、という思いを、
決断の主体まで戻し、そこから聖霊兄貴へ委ねてゆく。
即座にこのモヤモヤは晴れないが、
後は兄貴に任せて放っておくことにする。
それにしても、一体、誰に勝ちたいんだろう。
相手もいないのに…、と、自分でも思う。
オンラインゲームにのめり込んでいる人なんかも
きっとこんな感覚なのかもしれない。
以上、今日はこんな感じでした。