香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

小さな赦し



今日も雨。

香港は亜熱帯気候なので、

弱いながら雨季と乾季がある。

気温は23度くらいで少し肌寒いくらいなのだが、

なにしろ湿度が95%もあるため、

毎年4月は、じめじめと家中がカビ臭くなる。

見れば、紺のスーツからは白い粉が吹き、

ストックルームの壁にも黒カビが広がっている。

チョイ姐に漂白剤でふき取ってもらってはいるが、

湿気を取るために、

寒くてもエアコンをつけなければならない。


夕方、一週間ぶりにジムへ行く。

いつものようにストレッチエリアで瞑想をする。

眼前に現われる投影から感じられる、

小さな分離感を捉え、しばし観察した後、

後ろ側へと返してゆく。そこから兄貴へ委ねる。

いつものパターンだ。

でも近頃は、エゴなのか、そうでないのか、

微妙な類の赦しが多い。


・WOWOWの映像が、見たい映画の時に限って固まる。

 →ついてない→神から攻撃された→神への怒り


・傘を持たずに買物に出たら帰りに大雨に見舞われた。

 →傘を持って出なかった後悔→自分バッシング

 →自分を助けてくれない(神)への憎悪

・しそ味の柿の種を一袋全部食べてしまった。

 →不摂生している罪悪感→食べ物への憎悪

 →神の代替物である食べ物を憎みながら食べている

 →実相から離れたという欠乏感→神への渇望

・コーヒーを淹れるために沸かした湯が指にかかった。

 →熱い→分離を選んだ自分を処罰→神への恐怖

・ジムで使いたいマシンがみんな使用中だった。

 →兄弟への殺意→裁きたい

 →自分以外皆殺し→自分が神になりたい


これらの分離を使ったエゴの想念を、

〝離れてない。起こってない。だから罪はない。〟

〝自分はいない。他者もいない。だから世界はない。〟

と新・断固三兄弟で赦し、聖霊へ委ねてゆく。


以前は何とも思わなかったような出来事、

例えば、外で犬が吠えている、というようなことに、

分離した個としての自分が反応しているのに気づく。

もう〝あいうえお〟と言っただけで分離している。


そうやって、いかに自分が24時間、

エゴを選んで分離を望んでいるかに気づき、

その〝分離感〟を見つめ、明け渡してゆくことで、

何千回分の前世や未来世を削除してゆける。


また、

無意識の分離感は、意識化されることで消滅する。

なぜなら、僕たちのエゴの知覚は、

完璧なハートの想念を歪めて作り出したものなので、

その歪みを認識し、意識的に観察した時点で、

分離が削除され、正常なハートに戻されるからだ。


言いかえれば、

僕たちは意識的に不幸でいることは不可能なのだ。

もし、その人が意識的に不幸を選択しているならば、

それは本人にとっては〝幸せ〟として

感知されているはずだからである。


上記のような、

細やかな赦しをするようになってからは、

会社を含めた日常生活の全てがとても〝平安〟だ。


僕の場合、知覚だけが平安になるのではなく、

実際に現実も変わる。


厄介な仕事関係のメールの数が激減したり、

苦手な人が突然気持ち悪いくらい優しくなったり、

画面の固まったWOWOWのテレビも、赦したら動き出し、

あれが欲しいな、と思ったら手に入ったりする。


しかし、これらの変化は赦しとは全く別物なのだ、

と、最近、理解し始めている。

というのも、

赦しが進むにつれて、自分の潜在意識に、

世界はない、引き寄せるものなど何もない、という、

無抵抗の〝自信〟というか〝余裕〟というか、

委ね切った先の安心感のようなものが芽生え、

その結果が現実に投影されてくる、

ただそれだけなのではないかと考えるようになった。


なので、厳密には、

赦したから現実が変わった、というわけではない。


だが、かといって、

よくなった現実を否定しないようにはしている。

〝これは重要ではない〟と捉えたりすると、

そこから罪悪感にとって代わられる。


聖霊兄貴とともに見れば、

元来自分も世界も無いのに、一体何を引き寄せるのか、

という話なのだが、肉体を持って夢を生きている間は、

やはり、物質的にも必要なものは必要だ。

だから快適である自分をバッシングする必要はない。


ただ、この幻想の世界で、

どんなに素晴らしい現実を手に入れても、

絶対に満たされず、最後は必ず分離することを、

わかっていればそれでいいのだ。


それにしても、

こんな世界、もういりません、必要ありません、

という境地に至った途端に与えられるって、

一体、どういうこと?


やっぱり、

長居は無用、店じまい…。